とは、わけの判らぬ問答をはじめた。シロオテは、いかにもしてその思うところを言いあらわし自分の使命を了解させたいとむなしい苦悶《くもん》をしているようであった。よい加減のところで訊問を切りあげてから、奉行たちは障子のかげの阿蘭陀人に、どうだ、と尋ねた。阿蘭陀人は、とんとわからぬ、と答えた。だいいち阿蘭陀人には、ロオマンの言葉がわからぬうえに、まして、その言うところは半ば日本の言葉もまじっているのであるから、猶々《なおなお》、聞きわけることがむずかしかったのであろう。
 長崎では、とうとう訊問に絶望して、このことを江戸へ上訴した。江戸でこの取調べに当ったのは、新井白石《あらいはくせき》である。

 長崎の奉行たちがシロオテを糺問《きゅうもん》して失敗したのは宝永五年の冬のことであるが、そのうちに年も暮れて、あくる宝永六年の正月に将軍が死に、あたらしい将軍が代ってなった。そういう大きなさわぎのためにシロオテは忘れられていた。ようようその年の十一月のはじめになって、シロオテは江戸へ召喚された。シロオテは長崎から江戸までの長途を駕籠《かご》にゆられながらやって来た。旅のあいだは、来る日も来る日も
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