た知識を手帖に書いた。
 ――大地、海水と相合うて、その形まどかなること手毬《てまり》の如くにして、天、円のうちに居る。たとえば、鶏子の黄なる、青きうちにあるが如し。その地球の周囲、九万里にして、上下四|旁《ほう》、皆、人ありて居れり。凡《およそ》、その地をわかちて、五大州となす。云々。

 それから十日ほど経って十二月の四日に、白石はまたシロオテを召し出し、日本に渡って来たことの由をも問い、いかなる法を日本にひろめようと思うのか、とたずねたのである。その日は朝から雪が降っていた。シロオテは降りしきる雪の中で、悦びに堪えぬ貌《かお》をして、私が六年さきにヤアパンニアに使するよう本師より言いつけられ、承って万里の風浪をしのぎ来て、ついに国都へついた、しかるに、きょうしも本国にあっては新年の初めの日として、人、皆、相賀するのである、このよき日にわが法をかたがたに説くとは、なんという仕合せなことであろう、と身をふるわせてそのよろこびを述べ、めんめんと宗門の大意を説きつくしたのであった。
 デウスがハライソを作って無量無数のアンゼルスを置いたことから、アダン、エワの出生と堕落について。ノエの箱船のことや、モイセスの十誡《じっかい》のこと。そうしてエイズス・キリストスの降誕、受難、復活のてんまつ。シロオテの物語は、尽きるところなかった。
 白石は、ときどき傍見《わきみ》をしていた。はじめから興味がなかったのである。すべて仏教の焼き直しであると独断していた。

 白石のシロオテ訊問は、その日を以ておしまいにした。白石はシロオテの裁断について将軍へ意見を言上した。このたびの異人は万里のそとから来た外国人であるし、また、この者と同時に唐へ赴《おもむ》いたものもある由なれば、唐でも裁断をすることであろうし、わが国の裁断をも慎重にしなければならぬ、と言って三つの策を建言した。
 第一にかれを本国へ返さるる事は上策也(此事難きに似て易き歟《か》)
 第二にかれを囚となしてたすけ置るる事は中策也(此事易きに似て尤《もっとも》難し)
 第三にかれを誅《ちゅう》せらるる事は下策也(此事易くして易かるべし)

 将軍は中策を採って、シロオテをそののち永く切支丹屋敷の獄舎につないで置いた。しかし、やがてシロオテは屋敷の奴婢《ぬひ》、長助はる夫婦に法を授けたというわけで、たいへんいじめられた。シロオテは折檻《せっかん》されながらも、日夜、長助はるの名を呼び、その信を固くして死ぬるとも志を変えるでない、と大きな声で叫んでいた。
 それから間もなく牢死した。下策をもちいたもおなじことであった。



底本:「太宰治全集1」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年8月30日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
   1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月
入力:柴田卓治
校正:すずきともひろ
1999年6月23日公開
2005年10月20日修正
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