、焼栗四つ、蜜柑《みかん》二つ、干柿五つ、丸柿二つ、パン一つを役人から与えられて、わびしげに食べていた。
新井白石は、シロオテとの会見を心待ちにしていた。白石は言葉について心配をした。とりわけ、地名や人名または切支丹の教法上の術語などには、きっとなやまされるであろうと考えた。白石は、江戸|小日向《こひなた》にある切支丹屋敷から蛮語《ばんご》に関する文献を取り寄せて、下調べをした。
シロオテは、程なく江戸に到着して切支丹屋敷にはいった。十一月二十二日をもって訊問を開始するようにきめた。ときの切支丹奉行は横田|備中守《びっちゅうのかみ》と柳沢八郎右衛門のふたりであった。白石は、まえもってこの人たちと打ち合せをして置いて、当日は朝はやくから切支丹屋敷に出掛けて行き、奉行たちと共に、シロオテの携えて来た法衣や貨幣や刀やその他の品物を検査し、また、長崎からシロオテに附き添うて来た通事たちを招き寄せて、たとえばいま、長崎のひとをして陸奥《むつ》の方言を聞かせたとしても、十に七八は通じるであろう、ましてイタリヤと阿蘭陀とは、私が万国の図を見てしらべたところに依ると、長崎陸奥のあいだよりは相さること近いのであるから、阿蘭陀の言葉でもってイタリヤの言葉を押しはかることもさほどむずかしいとは思われぬ、私もその心して聞こう故、かたがたもめいめいの心に推しはかり、思うところを私に申して呉れ、たとえかたがたの推量にひがごとがあっても、それは咎《とが》むべきでない、奉行の人たちも通事の誤訳を罪せぬよう、と諭《さと》した。人々は、承知した、と答えて審問の席に臨んだ。そのときの大通事は今村源右衛門。稽古通事は品川兵次郎、嘉福喜蔵。
その日のひるすぎ、白石はシロオテと会見した。場所は切支丹屋敷内であって、その法庭の南面に板縁があり、その縁ちかくに奉行の人たちが着席し、それより少し奥の方に白石が坐った。大通事は板縁の上、西に跪《ひざまず》き、稽古通事ふたりは板縁の上、東に跪いた。縁から三尺ばかり離れた土間に榻《こしかけ》を置いてシロオテの席となした。やがて、シロオテは獄中から輿《こし》ではこばれて来た。長い道中のために両脚が萎《な》えてかたわになっていたのである。歩卒ふたり左右からさしはさみ助けて、榻につかせた。
シロオテのさかやきは伸びていた。薩州《さっしゅう》の国守からもらった茶色の綿入
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