、私が十歳くらいの頃の事でありましたでしょうか、この下女は、さあ、あれで十七、八になっていたのでしょうか、頬の赤い眼のきょろきょろした痩《や》せた女でありましたが、こいつが主人の総領|息子《むすこ》たる私に、実にけしからん事を教えまして、それから今度は、私のほうから近づいて行きますと、まるで人が変ったみたいに激怒して私を突き飛ばし、お前は口が臭くていかん! と言いました。あの時のはずかしさ、私はそれから数十年経ったこんにち思い出しても、わあっ! と大声を挙げて叫び狂いたい程でございます。
 また、たぶん同じ頃の事であったかと思いますが、村の小学校、と申しましても、生徒が四、五十人に先生が二人、しかもその先生も、はたちをちょっと過ぎたくらいの若い先生と、それからその奥さんと二人なのでございまして、私は子供心にもその奥さんをお綺麗《きれい》なお方だと思い込んでいまして、いや、或いは村の人たちがそのように評判するのを聞いて、自分もいつしかそんな工合《ぐあい》の気持になったのか、何といってもそこは子供でございますから、お綺麗なお方だと思い込んでも、別段、それに就いて悩むなどという深刻な事はなく、まあ、漠然と慕っていたという程度だったのでございましょう。実に、私は、その日の事は、いまでもはっきり覚えておりますが、野分《のわき》のひどく吹き荒れている日でございまして、私たちはそのお綺麗な奥さんからお習字をならっていまして、奥さんが私の傍をとおった時に、どうしたはずみか、私の硯箱《すずりばこ》がひっくりかえり、奥さんの袖《そで》に墨汁《ぼくじゅう》がかかって、そのために私は、居残りを命ぜられました。けれども私は、その奥さんを幽《かす》かに慕っていたのでございますから、居残りを言いつけられても、かえって嬉しかったくらいで、別におそろしくも何とも思いませんでしたのです。他の生徒たちは皆、雨の中を家へ帰って行きまして、教室には、私と奥さんと二人きりになり、そうすると、奥さんは急に人が変ったみたいにはしゃぎ出して、きょうは主人は隣村へ用たしに行ってまだ帰らず、雨も降るし淋《さび》しいから、あなたと遊ぼうと思って、それだから居残りを言いつけたのです、悪く思わないで下さい、坊ちゃん、かくれんぼうでもしましょうか、と言うのです。坊ちゃん、と言われて私は、やはり私の家はこの部落では物持ちで上品なほうなのだから、私の物腰にもどこか上品な魅力があってそれでこんなに特別に可愛がられるのかしら、とまことに子供らしくない卑俗きわまる慢心を起し、いかにも坊ちゃんと言われてふさわしい子みたいに、わざとくにゃくにゃとからだを曲げ、ことさらに、はにかんで見せたり致しまして、じゃんけんしたら、奥さんのまけで、私がさきにかくれる事になりましたが、その時、学校の玄関のほうで物音がしまして、奥さんは聞き耳を立て、ちょっと行って見てまいりますから、坊ちゃんは、そのあいだにいいところへ隠れていてね、とにっと笑って言って玄関のほうへ小走りに走って行きまして、私は、すぐ教室の隅の机の下にもぐり込み、息をころして奥さんの捜しに来るのを待っていました。しばらくして、奥さんは、旦那《だんな》さんと一緒にやって来ました。あの子は、ねばねばして、気味がわるいから、あなたに一度うんと叱っていただきたいと思いまして、と奥さんが言い、旦那さんは、そうか、どこにいるんだ、と言い、奥さんは平然と、どこかそこらにいるでしょう? と言い、旦那さんは、つかつかと私の隠れている机のほうに歩いて来て、おいおい、そんなところで何をしているのだ、ばかやろう、と言い、ああ、私はもそもそと机の下で四つ這《ば》いの形のままで、あまり恥ずかしくて出るに出られず、あの奥さんがうらめしくてぽたぽた涙を落しました。

 所詮《しょせん》は、私が愚かなせいでございましょう。しかし、それにしても、女の人のあの無慈悲は、いったいどこから出て来るのでございましょう。私のそれからの境涯に於いても、いつでもこの女の不意に発揮する強力なる残忍性のために私は、ずたずたに切られどおしでございました。
 父が死んでから、私の家の内部もあまり面白くない事ばかりでございまして、私は家の事はいっさい母と弟にまかせると宣言いたしまして、十七の春に東京に出て、神田の或る印刷所の小僧になりました。印刷所と申しましても、工場には主人と職工二人とそれから私と四人だけ働いている小さい個人経営の印刷所で、チラシだの名刺だのを引受けて刷っていたのでございますが、ちょうどその頃は日露戦争の直後で、東京でも電車が走りはじめるやら、ハイカラな西洋建築がどんどん出来るやら、たいへん景気のよい時代でございましたので、その小さい印刷所もなかなか多忙でございました。しかし、どんなにいそがしくても、仕事はつらいとは思いませんでしたが、その印刷所のおかみさんと、それから千葉県出身だとかいう色のまっくろな三十歳前後のめしたき女と、この二人の意地くね悪い仕打には、何度泣かされたかわかりません。ご自分のしている事が、どんなにこちらに手痛いか、てんでお気附きにならないらしいので、ただもう、おそろしいと言うよりほかはございませんでした。内にいると、そのおかみさんとめしたき女にいじめられるし、たまたま休みの日など外へ遊びに出ても、外にはまた、別種の手剛《てごわ》い意地悪の夜叉《やしゃ》がいるのでございました。あれは、私が東京へ出て一年くらい経った、なんでもじめじめ雨の降り続いている梅雨の頃の事と覚えていますが、柄《がら》でも無く、印刷所の若いほうの職工と二人で傘《かさ》をさして吉原へ遊びに行き、いやもう、ひどいめに逢いました。そもそも吉原の女と言えば、女性の中で最もみじめで不仕合せで、そうして世の同情と憐憫《れんびん》の的《まと》である筈でございましたが、実際に見学してみますると、どうしてなかなか勢力のあるもので、ほとんどもう貴婦人みたいにわがままに振舞い、私は呶鳴《どな》られはせぬかとその夜は薄氷を踏むが如く言語動作をつつしみ、心しずかにお念仏など申し生きた心地もございませんでした。お念仏のおかげかどうか、その夜は別段叱り飛ばされる事もなく、きぬぎぬの朝を迎えましたが、女はお茶を一つ飲んで行け、と言います。おいらんの中でも、あれは少し位の高いほうだったのかも知れません、ちょっと威厳さえ持っていました。そうして婆に言いつけて、私の連れの職工とその相手のおいらんをも私たちの部屋へ呼んで来させ、落ちついてお茶をいれ、また部屋の隅の茶箪笥《ちゃだんす》から、お皿に一ぱい盛った精進揚《しょうじんあ》げを取り出し私たちにすすめました。連れの職工は、おい旦那、と私を呼び、奥さんの手料理をそれではごちそうになるとしよう、お前、案外もてやがるんだなあ、いろおとこめ、と言います。そう言われて私もまんざらでなく、うふふと笑ってやにさがり、いもの天ぷらを頬張ったら、私の女が、お前、百姓の子だね、と冷く言います。ぎょっとして、あわてて精進揚げを呑みくだし、うむ、と首肯《うなず》くと、その女は、連れの職工のおいらんのほうを向いて小声で、育ちの悪い男は、ものを食べさせてみるとよくわかるんだよ、ちょっちょっと舌打ちをしながら食べるんだよ、と全くなんの表情も無く、お天気の事でも言っているみたいに澄まして言うのでございます。まあ、その時の私の間のわるさ。連れの職工から、旦那とか色男とか言われた手前もあり、もう、どうしたらいいか、表面は何とかごまかし、泣き笑いして帰りましたが、途中で足駄の横緒《よこお》を踏み切って、雨の中をはだしで、尻端折《しりばしょ》りして黙々と歩いて、あの時のみじめな気持。いま思い出しても身震いが出ます。女性のうちで、最もしいたげられ、悲惨な暮しをしていると言われているあのおいらんでさえ、私にとっては、実におそろしい、雷神以外のものではなかったのでした。

 こんな工合に女から手ひどい一撃をくらった経験は、もう私にはかずかぎりも無くございますが、その中でも、いまだに忘れ得ぬ恥辱の思い出だけを申し述べるとしても、それだけでも、たっぷり一箇月の連続講演を必要とするほど、それほどおびただしいのでございますから、きょうは、その忘れ得ぬ思い出の中から、あとほんの三つ四つ聞いていただく事にしまして、それでひとまず、おわかれという事に致そうかと存じます。
 その神田の小さい印刷所で、おかみさんと色の黒い千葉県出身のめしたき女にいじめられながら、それでも私は五年間はたらきました。そのうちに、これはまあ、私にとって幸福な事であったのか、不幸な事であったのか、私のいま以《もっ》て疑問としているところでございますが、このようなダメな男でも、詩壇の一隅に乗り出す機縁が生じてまいったのでございます。実に、人の一生は、不思議とでも申すよりほか無いものでございます。その頃、日本では非常に文学熱がさかんで、もうとてもそれは、昨今のこの文化復興とか何とかいうお通夜みたいなまじめくさったものとはくらべものにならぬくらい、実に猛烈でハイカラで、まことに天馬空を駈《か》けるという思い切ったあばれ方で、ことにも外国の詩の飜訳《ほんやく》みたいに、やたらに行《ぎょう》をかえて書く詩が大流行いたしまして、私の働いている印刷所にも、その詩の連中が機関雑誌を印刷してくれと頼みに来まして、「あけぼの」という題の、二十頁そこそこのパンフレットでございましたから、引受けて印刷する事になったのでございますが、私はいつもその原稿を読み活字を拾い、しだいに文学熱にかぶれて、本屋へ行って当時の大家の詩集なども買って来て読むようになり、だんだん自信のようなものが出て来て、「豚《ぶた》の背中に鴉《からす》が乗って」という題で、私が田舎の畠で実際に目撃しました珍風景を、でたらめに大いにれいの行をかえて書いてみまして、それをおっかなびっくり、「あけぼの」の詩人のひとりに見てもらいましたところ、面白い、という事になり、その「あけぼの」の誌上に掲載されるという意外の光栄を得まして、それに気をよくして、さらにその次には、「林檎《りんご》を盗みに行った時」という題で、やはり田舎に於ける私の冒険失敗談をかなり長く、れいの如くさかんに行をかえて書き、やはり「あけぼの」に掲載せられまして、これがまあ、当ったというのでございましょうか、新聞などでも、それをまともに取りあげて、何だかもう私の知らないむずかしい言葉でもっともらしく論じているのですから、私も呆れてしまいました。にわかに詩人の友だちもふえて、詩人というものはただもう大酒をくらって、そうして地べたに寝たりなんかすると、純真だとか何だとか言ってほめられるもので、私も抜《ぬ》からず大酒をくらって、とにもかくにも地べたに寝て見せましたので、仲間からもほめられ、それがためにお金につまって質屋がよいが頻繁《ひんぱん》になりまして、印刷所のおかみさんと、れいの千葉県出身の攻撃の火の手はほとんど極度に達しまして、さすがに私も防ぎ切れず、とうとうその印刷所から逃げ出してしまいました。やはり私は、詩という魔物のために、一生をあやまったのかも知れません。しかし、あの時、印刷所のおかみさんと千葉県が、も少し私に優しく、そうして静かに意見してくれたら、私はふっつりと詩|三昧《ざんまい》を思い切り、まじめな印刷工にかえっていまごろはかなりの印刷所のおやじになっていたのではなかろうかと、老いの愚痴でございましょうが、しきりにそう考えられてならないのでございます。私のようなダメな男が、詩など書いて、そのおぼつかない筆一本だけにたよって東京の賢明な文人たちに伍して暮して行くなど、とてもとても出来るものではないんです。その印刷所から逃げ出してからの私の生活たるや、お話にも何にもならぬていたらくのものでございまして、いま思い出しても、まるで地獄の走馬燈を呆然《ぼうぜん》と眺めているような気持が致しまして、よくまあ発狂もせず餓え死もせず、こうして生き伸びて来たものだと我
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