やっぱり、何が何でもひたすらお断りするのが本当であったと、後悔ほぞを噛《か》んでいる次第でございます。
 いったい私は、いまではダメな老人である事はもちろんでございますが、それならば、若い時の、せめて或る一時期に於いて、ダメでない頃があったかと申しますると、これもまた全然ダメだったのでございます。私が東京に於いて或るほんの一時期、これでも多少、まあ、わずかな人たちのあいだで、問題にされた事もあったと、まあ、言って言えない事もないと思いますが、しかし、その問題にされ方が、如何《いか》に私がダメな男であるか、おそらくは日本で何人と数えられるほどダメな男ではなかろうか、という事に就いて問題にされたのでありまして、その頃、私の代表作と言われていた詩集の題は、「われ、あまりに愚かしければ、詐欺師《さぎし》もかえって銭《ぜに》を与う」というのでありまして、之《これ》を以《もっ》てみても、私の文名たるや、それは尊敬の対象では無く、呆れられ笑われ、また極めて少数の情深い人たちからは、なぐさめられ、いたわられ、わずかに呼吸しているという性質のものであったという事がおわかりでございましょう。甚《はなは》だ妙な言い方でございますが、つまりその頃の私の存在価値は、そのダメなところにだけ在ったのでして、もし私がダメでなかったら、私の存在価値が何も、全然、無くなるという、まことに我ながら奇怪閉口の位置に立たされていたのでございます。しかし、私も若干|馬齢《ばれい》を加えるに及び、そのような風変りの位置が、一個の男児としてどのように不面目、破廉恥《はれんち》なものであるかに気づいていたたまらなくなりまして、「こぞの道徳いまいずこ」という題の、多少、分別顔の詩集を出版いたしましたところ、一ぺんで私は完全にダメになりました。ダメのまた下のダメという、謂《い》わば「ほんもの」のダメという事になりまして、私は詩壇に於いて失脚し、また、それまでの言語に絶した窮乏生活の悪戦苦闘にも疲れ果て、ついに秋風と共に単身都落ちというだらし無い運命に立ちいたったのでございます。
 つまり私という老人は、何一つ見るべきところが無い、それが私の本領、などと言って居直って威張り得る筋合いの事では決してございませんが、そのような男が、この地方の教育会のお歴々に向って、いったい何を講演したらよろしいのでありましょうか。残酷とは、まさにこの事でございます。

 そもそも民主主義とは、――いや、これはどうも、あまりに唐突で、自分で言い出して自分でおどろいている有様で苦笑の他はございませんが、実は私は、まったく無学の者で、何も知らんのです。しかし、民主とは、民の主《あるじ》と書き、そのつまり主義、思想、アメリカ、世界、まあ、だいたいそういったわけのものかと私は解して居ります。それでまあ、日本でもいよいよこの民主主義という事になりますそうで、おめでたい事と存じていますが、この民主主義のおかげで、男女同権! これ、これが、私の最も関心を有し、かつ久しく待ち望んでいたところのものでございまして、もうこれからは私も誰はばかるところなく、男性の権利を女性に対して主張する事が出来るのかと思えば、まことに夜の明けたる如き心地が致しまして、おのずから微笑のわき出るのを禁じ得ないのでございます。実に、私は今まで女性というもののために、ひどいめにばかり逢って来たのでございます。私がこんにち、このようなダメな老人になってしまったのも、すべてこれ、女性のせいではなかろうかとさえ、私はひそかに考えているのでございます。

 幼い頃より、私はこの女性というものには、いじめられ、つらい思いをしてまいりました。私の母は、これは継母でもなんでもなく、まことの生みの母親でございましたが、どういうものか弟のほうばかりを可愛がって、長男の私に対しては妙によそよそしく、意地わるくするのでございます。もう私の母も、とうの昔にあの世に旅立ってしまいまして、仏《ほとけ》に対してとやかくうらみを申し述べるのは私としても、たいへん心苦しい事ですが、忘れも致しません、私が十歳くらいで、いまのあの弟が五歳くらいの頃に、私はよそから犬の子を一匹もらって来て少し自慢そうに母と弟とに見せてやったら、弟がそれをほしがって泣きました。すると母は、弟をなだめて、その犬の子は兄さんのごはんで育てるのだからな、と妙な事をまじめな顔で言います。兄さんのごはんとは、どんな事だか、私が自分でたべるごはんをたべないでその犬の子に与えて養うべきだという意味だったのでしょうか、それとも、私の家でたべているごはんは、全部|総領《そうりょう》の私のものなのだから、弟などには犬の子を養う資格が無いという意味だったのでしょうか、いまでも私には、はっきり理解が出来ないのですが、とにかくそ
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