、この女はあれほど私の詩の仲間を糞味噌《くそみそ》に悪く言い、殊《こと》にも仲間で一番若い浅草のペラゴロの詩人、といってもまだ詩集の一つも出していないほんの少年でしたが、そいつに対する彼女の蔭の嘲罵《ちょうば》は、最も物凄いものでございまして、そうして何の事は無い、やがてその少年と通じ、私を捨てて逃げて行きましたのでございます。まことに女は、奇怪な事をするものでございます。まったく、じっさい、その心理を解するに苦しむのみでございます。

 しかし、これでも、その次の三番目の女房に較べると、まだよいほうだと言わなければなりませんのでございます。これはもうはじめから、私を苦力《クリイ》のようにこき使う目的を以て私に近づいて来たのです。その頃は私も、おのずから次第にダメになり、詩を書く気力も衰え、八丁堀の路地に小さいおでんやの屋台を出し、野良犬《のらいぬ》みたいにそこに寝泊りしていたのですが、その路地のさらに奥のほうに、六十過ぎの婆とその娘と称する四十ちかい大年増が、焼芋《やきいも》やの屋台を出し、夜寝る時は近くの木賃宿に行き、ほとんど私同様、無一物の乞食みたいな生活をしていまして、そいつらが私に眼をつけ、何かと要らない手伝いなどして、とうとう私はその木賃宿に連れて行かれ、それがまあ悪縁のはじまりでございまして、二つの屋台をくっつけて謂《い》わばまあ店舗《てんぽ》の拡張という事になり、私は大工さんの仕事やら、店の品の仕入れやら、毎日へとへとになるまで働き、婆と娘は客の相手で、いやな用事はみんな私に押しつけ、売上げの金は婆と娘が握ってはなさず、だんだん私を露骨に下男あつかいにして来まして、夜に木賃宿で私が娘に近づこうとすると、婆と娘は、しっ、しっ、とまるで猫でも追うようなイヤな叱り方をして私を遠ざけてしまいます。あとで少しずつ私にも気がついて来たのでございますが、この婆と娘は、ほんとうの親子で無いようなところもあり、何が何やら、二人とも夜鷹《よたか》くらいまで落ちた事があるような気配も見え、とにかくあまり心根が悪すぎてみんなに呆《あき》れられ捨てられ、もういまでは誰からも相手にされなくなっていたようなのでございました。私はこの四十ちかい大年増から、たちの悪い病気までうつされ、人知れぬ苦労をしたのでございますが、婆と娘はかえってそのとがを私に押しつけ、娘は何か面白くない事があ
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