いと念じていた矢先で、謂《い》わば青雲《せいうん》の志をほのかながら胸に抱いていたのでございますから、たとい半狂乱の譫言《うわごと》にもせよ、悪魔だの色魔だの貞操蹂躙だのという不名誉きわまる事を言われ、それが世間の評判になったら、もうそれだけで自分の将来は滅茶苦茶になるのではあるまいかと思えば、じっさい笑い事ではなく、まだ私も若かっただけに、あまりに憂鬱で、この女を殺して自分も死のうかと、何度考えたかわかりません。とうとうこの女は、私と同棲三年目に、私を捨てて逃げて行きました。へんな書き置きみたいなものを残して行きましたが、それがまた何とも不愉快、あなたはユダヤ人だったのですね、はじめてわかりました、虫にたとえると、赤蟻《あかあり》です、と書いてあるのです。何の事だか、まるでナンセンスのようでございますが、しかし、感覚的にぞっとするほどイヤな、まるで地獄の妖婆《ようば》の呪文みたいな、まことに異様な気持のする言葉で、あんな脳の悪い女でも、こんな不愉快きわまる戦慄《せんりつ》の言葉を案出し投げつけて寄こす事が出来るとは、実に女性というものには、底の知れないおそろしいところがあるとつくづく感じ入りましたのでございます。
けれどもそれは、まあ、文学少女の、文学的な悪態で、二番目の女房の現実的な悪辣《あくらつ》さに較《くら》べると、まだしも我慢が出来ると言っていいかも知れませんでございます。この二番目の女房は、私が本郷に小さいミルクホールをひらいた時、給仕女として雇った女で、ミルクホールが失敗して閉鎖になってもそのままずるずると私のところに居ついてしまいまして、この女はまた金を欲しがる事、あたかも飢渇《きかつ》の狼《おおかみ》の如く、私の詩の勉強などはてんで認めず、また私の詩の友人ひとりひとりに対する蔭口は猛烈をきわめ、まあ俗に言うしっかり者みたいな一面がありまして、私の詩の評判などはどうだってかまわない様子で、ただもう私の働きの無い事をののしり、自分ほど不仕合せの者は無いと言って歎き、たまに雑誌社の人が私のところに詩の註文を持って来てくれると、私をさし置いて彼女自身が膝をすすめて、当今の物価の高い事、亭主は愚図《ぐず》で頭が悪くて横着で一つも信頼の出来ぬ事、詩なんかではとても生活して行かれぬから、亭主をこれから鉄道に勤めさせようと思っている事、悪い詩の友だちがついている
前へ
次へ
全18ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング