でのぼりながら、雪は、なにかの話のついでに、とつぜん或る新進作家の名前で私を高く呼んだ。私は、どきんと胸打たれた。雪の愛している男は私ではない。或る新進作家だったのだ。私は目の前の幸福が、がらがらと音をたてて崩れて行くのを感じたのである。ここで私は、すべてを告白してしまったら、よかったのである。すくなくとも雪を殺さずにすんだのかも知れない。しかし、それができなかった。そんな恥かしいことは死ぬるともできなかった。私はおのれの顔が蒼《あお》ざめて行くのを、自身ではっきり意識した。
雪も流石《さすが》に、私のそんなうち沈んだ様子に不審をいだいたらしかった。
「どうなすったの? 私、判るわ。いやになったのねえ。あなたの花物語という小説に、こんな言葉があったわねえ。一目見て死ぬほど惚れて、二度目には顔を見るさえいやになる、そんな情熱こそはほんとうに高雅な情熱だって書かれていたわねえ。判ったわよ。」
「いや、あれは、くだらん言葉だ。」
私は、あくまでも、その新進作家をよそわねばならなかった。どうせ判ることだ。まっかな贋物だと判ることだ。ああ、そのとき!
私は、できるだけ平静をよそって、雪のよろこびそうな言葉をならべた。雪は気嫌《きげん》を直した。私たちは、山の頂きにたどりついた。すぐ足もとから百丈もの断崖になっていて、深い朝霧の奥底に海がゆらゆらうごいていた。
「いい景色でしょう?」
雪は、晴れやかに微笑みつつ、胸を張って空気を吸いこんだ。
私は、雪を押した。
「あ!」
口を小さくあけて、嬰児《えいじ》のようなべそを掻《か》いて、私をちらと振りむいた。すっと落ちた。足をしたにしてまっすぐに落ちた。ぱっと裾《すそ》がひろがった。
「なに見てござる?」
私は、落ちついてふりむいた。山のきこりが、ひっそり立っていた。
「女です。女を見ているのです。」
年老いたきこりは、不思議そうな面持で、崖のしたを覗《のぞ》いた。
「や、ほんとだ。女が浪さ打ちよせられている。ほんとだ。」
私はそのときは放心状態であった。もし、そのきこりが、お前がつき落したのだろうと言ったら、私はそうだと答えたにちがいない。しかし、それは、いまにして判ったのであるが、そのきこりが、私を疑えない筈だった。それは断崖の百丈の距離が、もたらして呉れた錯覚である。たったいま手をかけて殺した男が、まさか、これ
前へ
次へ
全14ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング