ら深浦の伝説か何か聞かうかと思つた。
「深浦の名所は何です。」
「観音さんへおまゐりなさいましたか。」
「観音さん? あ、円覚寺の事を、観音さんと言ふのか。さう。」このをばさんから、何か古めかしい話を聞く事が出来るかも知れないと思つた。しかるに、その座敷に、ぶつてり太つた若い女があらはれて、妙にきざな洒落など飛ばし、私は、いやで仕様が無かつたので、男子すべからく率直たるべしと思ひ、
「君、お願ひだから下へ行つてくれないか。」と言つた。私は読者に忠告する。男子は料理屋へ行つて率直な言ひ方をしてはいけない。私は、ひどいめに逢つた。その若い女中が、ふくれて立ち上ると、をばさんも一緒に立ち上り、二人ともゐなくなつてしまつた。ひとりが部屋から追ひ出されたのに、もうひとりが黙つて坐つてゐるなどは、朋輩の仁義からいつても義理が悪くて出来ないものらしい。私はその広い部屋でひとりでお酒を飲み、深浦港の燈台の灯を眺め、さらに大いに旅愁を深めたばかりで宿へ帰つた。翌る朝、私がわびしい気持で朝ごはんを食べてゐたら、主人がお銚子と、小さいお皿を持つて来て、
「あなたは、津島さんでせう。」と言つた。
「ええ。」私は宿帳に、筆名の太宰を書いて置いたのだ。
「さうでせう。どうも似てゐると思つた。私はあなたの英治兄さんとは中学校の同期生でね、太宰と宿帳にお書きになつたからわかりませんでしたが、どうも、あんまりよく似てゐるので。」
「でも、あれは、偽名でもないのです。」
「ええ、ええ、それも存じて居ります、お名前を変へて小説を書いてゐる弟さんがあるといふ事は聞いてゐました。どうも、ゆうべは失礼しました。さあ、お酒を、めし上れ。この小皿のものは、鮑のはらわたの塩辛ですが、酒の肴にはいいものです。」
 私はごはんをすまして、それから、塩辛を肴にしてその一本をごちそうになつた。塩辛は、おいしいものだつた。実に、いいものだつた。かうして、津軽の端まで来ても、やつぱり兄たちの力の余波のおかげをかうむつてゐる。結局、私の自力では何一つ出来ないのだと自覚して、珍味もひとしほ腹綿にしみるものがあつた。要するに、私がこの津軽領の南端の港で得たものは、自分の兄たちの勢力の範囲を知つたといふ事だけで、私は、ぼんやりまた汽車に乗つた。
 鰺ヶ沢。私は、深浦からの帰りに、この古い港町に立寄つた。この町あたりが、津軽の西海岸の中心で、江戸時代には、ずいぶん栄えた港らしく、津軽の米の大部分はここから積出され、また大阪廻りの和船の発着所でもあつたやうだし、水産物も豊富で、ここの浜にあがつたさかなは、御城下をはじめ、ひろく津軽平野の各地方に於ける家々の食膳を賑はしたものらしい。けれども、いまは、人口も四千五百くらゐ、木造、深浦よりも少いやうな具合で、往年の隆々たる勢力を失ひかけてゐるやうだ。鰺ヶ沢といふからには、きつと昔の或る時期に、見事な鰺がたくさんとれたところかとも思はれるが、私たちの幼年時代には、ここの鰺の話はちつとも聞かず、ただ、ハタハタだけが有名であつた。ハタハタは、このごろ東京にも時たま配給されるやうであるから、読者もご存じの事と思ふが、鰰、または※[#「魚+雷」、第4水準2−93−86]などといふ字を書いて、鱗の無い五、六寸くらゐのさかなで、まあ、海の鮎とでも思つていただいたら大過ないのではあるまいか。西海岸の特産で、秋田地方がむしろ本場のやうである。東京の人たちは、あれを油つこくていやだと言つてゐるやうだけれど、私たちには非常に淡泊な味のものに感ぜられる。津軽では、あたらしいハタハタを、そのまま薄醤油で煮て片端から食べて、二十匹三十匹を平気でたひらげる人は決して珍らしくない。ハタハタの会などがあつて、一ばん多く食べた人には賞品、などといふ話もしばしば聞いた。東京へ来るハタハタは古くなつてゐるし、それに料理法も知らないだらうから、ことさらまづいものに感ぜられるのであらう。俳句の歳時記などにも、ハタハタが出てゐるやうだし、また、ハタハタの味は淡いといふ意味の江戸時代の俳人の句を一つ読んだ記憶もあるし、あるいは江戸の通人には、珍味とされてゐたものかも知れない。いづれにもせよ、このハタハタを食べる事は、津軽の冬の炉辺のたのしみの一つであるといふ事には間違ひない。私は、そのハタハタに依つて、幼年時代から鰺ヶ沢の名を知つてはゐたのだが、その町を見るのは、いまがはじめてであつた。山を背負ひ、片方はすぐ海の、おそろしくひよろ長い町である。市中はものの匂ひや、とかいふ凡兆の句を思ひ出させるやうな、妙によどんだ甘酸つぱい匂ひのする町である。川の水も、どろりと濁つてゐる。どこか、疲れてゐる。木造町のやうに、ここにも長い「コモヒ」があるけれども、少し崩れかかつてゐる、リ造町のコモヒのやうな涼しさが無い。その日も、ひどくいい天気だつたが、日ざしを避けて、コモヒを歩いてゐても、へんに息づまるやうな気持がする。飲食店が多いやうである。昔は、ここは所謂銘酒屋のやうなものが、ずいぶん発達したところではあるまいかと思はれる。今でも、そのなごりか、おそばやが四、五軒、軒をつらねて、今の時代には珍らしく「やすんで行きせえ。」などと言つて道を通る人に呼びかけてゐる。ちやうどお昼だつたので、私は、そのおそばやの一軒にはひつて、休ませてもらつた。おそばに、焼ざかなが二皿ついて、四十銭であつた。おそばのおつゆも、まづくなかつた。それにしても、この町は長い。海岸に沿うた一本街で、どこ迄行つても、同じやうな家並が何の変化もなく、だらだらと続いてゐるのである。私は、一里歩いたやうな気がした。やつと町のはづれに出て、また引返した。町の中心といふものが無いのである。たいていの町には、その町の中心勢力が、ある箇所にかたまり、町の重《おもし》になつてゐて、その町を素通りする旅人にも、ああ、この辺がクライマツクスだな、と感じさせるやうに出来てゐるものだが、鰺ヶ沢にはそれが無い。扇のかなめがこはれて、ばらばらに、ほどけてゐる感じだ。これでは町の勢力あらそひなど、ごたごたあるのではなからうかと、れいのドガ式政談さへ胸中に往来したほど、どこか、かなめの心細い町であつた。かう書きながら、私は幽かに苦笑してゐるのであるが、深浦といひ鰺ヶ沢といひ、これでも私の好きな友人なんかがゐて、ああよく来てくれた、と言つてよろこんで迎へてくれて、あちこち案内し説明などしてくれたならば、私はまた、たわいなく、自分の直感を捨て、深浦、鰺ヶ沢こそ、津軽の粋である、と感激の筆致でもつて書きかねまいものでもないのだから、実際、旅の印象記などあてにならないものである。深浦、鰺ヶ沢の人は、もしこの私の本を読んでも、だから軽く笑つて見のがしてほしい。私の印象記は、決して本質的に、君たちの故土を汚すほどの権威も何も持つてゐないのだから。
 鰺ヶ沢の町を引上げて、また五能線に乗つて五所川原町に帰り着いたのは、その日の午後二時。私は駅から、まつすぐに、中畑さんのお宅へ伺つた。中畑さんの事は、私も最近、「帰去来」「故郷」など一聯の作品によく書いて置いた筈であるから、ここにはくどく繰り返さないが、私の二十代に於けるかずかずの不仕鱈の後仕末を、少しもいやな顔をせず引受けてくれた恩人である。しばらく振りの中畑さんは、いたましいくらゐに、ひどくふけてゐた。昨年、病気をなさつて、それから、こんなに痩せたのださうである。
「時代だぢやあ。あんたが、こんな姿で東京からやつて来るやうになつたものなう。」と、それでも嬉しさうに、私の乞食にも似たる姿をつくづく眺め、「や、靴下が切れてゐるな。」と言つて、自分で立つて箪笥から上等の靴下を一つ出して私に寄こした。
「これから、ハイカラ町《ちやう》へ行きたいと思つてるんだけど。」
「あ、それはいい。行つていらつしやい。それ、けい子、御案内。」と中畑さんは、めつきり痩せても、気早やな性格は、やはり往年のままである。五所川原の私の叔母の家族が、そのハイカラ町に住んでゐるのである。私の幼年の頃に、その街がハイカラ町といふ名前であつたのだけれども、いまは大町とか何とか、別な名前のやうである。五所川原町に就いては、序編に於いて述べたが、ここには私の幼年時代の思ひ出がたくさんある。四、五年前、私は五所川原の或る新聞に次のやうな随筆を発表した。
「叔母が五所川原にゐるので、小さい頃よく五所川原へ遊びに行きました。旭座の舞台開きも見に行きました。小学校の三、四年の頃だつたと思ひます。たしか、左右衛門だつた筈です。梅の由兵衛に泣かされました。廻舞台を、その時、生れてはじめて見て、思はず立ち上つてしまつた程に驚きました。あの旭座は、その後間もなく火事を起し、全焼しました。その時の火焔が、金木から、はつきり見えました。映写室から発火したといふ話でした。さうして、映画見物の小学生が十人ほど焼死しました。映写の技師が、罪に問はれました。過失傷害致死とかいふ罪名でした。子供心にも、どういふわけだか、その技師の罪名と、運命を忘れる事が出来ませんでした。旭《あさひ》座といふ名前が『火《ひ》』の字に関係があるから焼けたのだといふ噂も聞きました。二十年も前の事です。
 七つか、八つの頃、五所川原の賑やかな通りを歩いて、どぶに落ちました。かなり深くて、水が顎のあたりまでありました。三尺ちかくあつたのかも知れません。夜でした。上から男の人が手を差し出してくれたので、それにつかまりました。ひき上げられて衆人環視の中で裸にされたので、実に困りました。ちやうど古着屋のまへでしたので、その店の古着を早速着せられました。女の子の浴衣でした。帯も、緑色の兵児帯でした。ひどく恥かしく思ひました。叔母が顔色を変へて走つて来ました。私は叔母に可愛がられて育ちました。私は、男ぶりが悪いので、何かと人にからかはれて、ひとりでひがんでゐましたが、叔母だけは、私を、いい男だと言つてくれました。他の人が、私の器量の悪口を言ふと、叔母は、本気に怒りました。みんな、遠い思ひ出になりました。」
 中畑さんのひとり娘のけいちやんと一緒に中畑さんの家を出て、
「僕は岩木川を、ちよつと見たいんだけどな。ここから遠いか。」
 すぐそこだといふ。
「それぢや、連れて行つて。」
 けいちやんの案内で町を五分も歩いたかと思ふと、もう大川である。子供の頃、叔母に連れられて、この河原に何度も来た記憶があるが、もつと町から遠かつたやうに覚えてゐる。子供の足には、これくらゐの道のりでも、ひどく遠く感ぜられたのであらう。それに私は、家の中にばかりゐて、外へ出るのがおつかなくて、外出の時には目まひするほど緊張してゐたものだから、なほさら遠く思はれたのだらう。橋がある。これは、記憶とそんなに違はず、いま見てもやつぱり同じ様に、長い橋だ。
「いぬゐばし、と言つたかしら。」
「ええ、さう。」
「いぬゐ、つて、どんな字だつたかしら。方角の乾《いぬゐ》だつたかな?」
「さあ、さうでせう。」笑つてゐる。
「自信無し、か。どうでもいいや。渡つてみよう。」
 私は片手で欄干を撫でながらゆつくり橋を渡つて行つた。いい景色だ。東京近郊の川では、荒川放水路が一ばん似てゐる。河原一面の緑の草から陽炎がのぼつて、何だか眼がくるめくやうだ。さうして岩木川が、両岸のその緑の草を舐めながら、白く光つて流れてゐる。
「夏には、ここへみんな夕涼みにまゐります。他に行くところもないし。」
 五所川原の人たちは遊び好きだから、それはずいぶん賑はふ事だらうと思つた。
「あれが、こんど出来た招魂堂です。」けいちやんは、川の上流のはうを指差して教へて、「父の自慢の招魂堂。」と笑ひながら小声で言ひ添へた。
 なかなか立派な建築物のやうに見えた。中畑さんは在郷軍人の幹部なのである。この招魂堂改築に就いても、れいの侠気を発揮して大いに奔走したに違ひない。橋を渡りつくしたので、私たちは橋の袂に立つて、しばらく話をした。
「林檎はもう、間伐《かんばつ》といふのか、少しづつ伐つて、伐つたあとに馬鈴薯だか
前へ 次へ
全23ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング