ければ、わからないところがあります。こんどは、いい体験を得ました。」
「さすがに人間ができて来たやうだね。じつさい、胸の病気なんてものは、」と私は、少し酔つて来たので、おくめんも無く医者に医学を説きはじめた。「精神の病気なんだ。忘れちまへば、なほるもんだ。たまには大いに酒でも飲むさ。」
「ええ、まあ、ほどよくやつてゐます。」と言つて、笑つた。私の乱暴な医学は、本職にはあまり信用されないやうであつた。
「何か召上りませんか。青森にも、このごろは、おいしいおさかなが少くなつて。」
「いや、ありがたう。」私は傍のお膳をぼんやり眺めながら、「おいしさうなものばかりぢやないか。手数をかけるね。でも、僕は、そんなにたべたくないんだ。」
 こんど津軽へ出掛けるに当つて、心にきめた事が一つあつた。それは、食ひ物に淡泊なれ、といふ事であつた。私は別に聖者でもなし、こんな事を言ふのは甚だてれくさいのであるが、東京の人は、どうも食ひ物をほしがりすぎる。私は自身古くさい人間のせゐか、武士は食はねど高楊枝などといふ、ちよつとやけくそにも似たあの馬鹿々々しい痩せ我慢の姿を滑稽に思ひながらも愛してゐるのである。何もことさらに楊枝まで使つてみせなくてもよささうに思はれるのだが、そこが男の意地である。男の意地といふものは、とかく滑稽な形であらはれがちのものである。東京の人の中には、意地も張りも無く、地方へ行つて、自分たちはいまほとんど餓死せんばかりの状態なのです、とひどく大袈裟に窮状を訴へ、さうして田舎の人の差し出す白米のごはんなどを拝んで食べて、お追従たらたら、何かもつと食べるものはありませんか、おいもですか、そいつは有難い、幾月ぶりでこんなおいしいおいもを食べる事でせう、ついでに少し家へ持つて帰りたいのですけれども、わけていただけませんでせうかしら、などと満面に卑屈の笑ひを浮べて歎願する人がたまにあるとかいふ噂を聞いた。東京の人みなが、確実に同量の食料の配給を受けてゐる筈である。その人ひとりが、特別に餓死せんばかりの状態なのは奇怪である。或いは胃拡張なのかも知れないが、とにかく食べ物の哀訴歎願は、みつともない。お国のため、などと開き直つた事は言はずとも、いつの世だつて、人間としての誇りは持ち堪へてゐたいものだ。東京の少数の例外者が、地方へ行つて、ひどく出鱈目に帝都の食料不足を訴へるので、地方の人たちは、東京から来た客人を、すべて食べものをあさりに来たものとして軽蔑して取扱ふやうになつたといふ噂も聞いた。私は津軽へ、食べものをあさりに来たのではない。姿こそ、むらさき色の乞食にも似てゐるが、私は真理と愛情の乞食だ、白米の乞食ではない! と東京の人全部の名誉のためにも、演説口調できざな大見得を切つてやりたいくらゐの決意をひめて津軽へ来たのだ。もし、誰か私に向つて、さあさ、このごはんは白米です、おなかが破れるほど食べて下さい、東京はひどいつて話ぢやありませんか、としんからの好意を以て言つてくれても、私は軽く一ぱいだけ食べて、さうしてかう言はうと思つてゐた。「なれたせゐか、東京のごはんのはうがおいしい。副食物だつて、ちやうど無くなつたと思つた頃に、ちやんと配給がありますBいつのまにやら胃腑が撤収して小さくなつてゐるので、少したべると満腹します。よくしたもんですよ。」
 けれども私のそんなひねくれた用心は、まつたく無駄であつた。私は津軽のあちこちの知合ひの家を訪れたが、一人として私に、白いごはんですよ、腹の破れるほど食ひ溜めなさいなどと言つてくれた人は無かつた。殊にも、私の生家の八十八歳の祖母などに至つては、「東京は、おいしいものが何でもあるところだから、お前に、何かおいしいものを食べさせようと思つても困つてしまふな。瓜の粕漬でも食べさせたいが、どうしたわけだか、このごろ酒粕もとんと無いてば。」と面目なささうに言ふので、私は実に幸福な気がした。謂はば私は、食べ物などの事にはあまり敏感でないおつとりした人たちとばかり逢つたのである。私は自分の幸運を神に感謝した。あれも持つて行け、これも持つて行け、と私に食料品のお土産をしつこく押しつけた人も無かつた。おかげで私は軽いリユツクサツクを背負つて気楽に旅をつづける事が出来たのであるが、けれども帰京してみると、私の家には、それぞれの旅先の優しい人たちからの小包が、私よりもさきに一ぱいとどいてゐたので呆然とした。それは余談だが、とにかく、T君もそれ以上私に食べものをすすめはしなかつたし、東京の食べ物はどんな工合であるかなどといふ事は、一ぺんも話題にのぼらなかつた、おもな話題は、やはり、むかし二人が金木の家で一緒に遊んだ頃の思ひ出であつた。
「僕は、しかし君を、親友だと思つてゐるんだぜ。」実に乱暴な、失敬な、いやみつたらしく気障《き
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