もらひました。鳶の者だか、ばくち打ちだか、お店《たな》ものだか、わけのわからぬ服装になつてしまひました。統一が無いのです。とにかく、芝居に出て来る人物の印象を与へるやうな服装だつたら、少年はそれで満足なのでした。初夏のころで、少年は素足に麻裏草履をはきました。そこまではよかつたのですが、ふと少年は妙なことを考へました。それは股引に就いてでありました。紺の木綿のピッチリした長股引を、芝居の鳶の者が、はいてゐるやうですけれど、あれを欲しいと思ひました。ひよつとこめ、と言つて、ぱつと裾をさばいて、くるりと尻をまくる。あのときに紺の股引が眼にしみるほど引き立ちます。さるまた一つでは、いけません。少年は、その股引を買ひ求めようと、城下まちを端から端まで走り廻りました。どこも無いのです。あのね、ほら、あの左官屋さんなんか、はいてゐるぢやないか、ぴちつとした紺の股引さ、あんなの無いかしら、ね、と懸命に説明して、呉服屋さん、足袋屋さんに聞いて歩いたのですが、さあ、あれは、いま、と店の人たち笑ひながら首を振るのでした。もう、だいぶ暑いころで、少年は、汗だくで捜し廻り、たうとう或る店の主人から、それは、うちにはございませぬが、横丁まがると消防のもの専門の家がありますから、そこへ行つてお聞きになると、ひよつとしたらわかるかも知れません、といいこと教へられ、なるほど消防とは気がつかなかつた。鳶の者と言へば、火消しのことで、いまで言へば消防だ、なるほど道理だ、と勢ひ附いて、その教へられた横丁の店に飛び込みました。店には大小の消火ポンプが並べられてありました。纏《まとひ》もあります。なんだか心細くなつて、それでも勇気を鼓舞して、股引ありますか、と尋ねたら、あります、と即座に答へて持つて来たものは、紺の木綿の股引には、ちがひ無いけれども、股引の両外側に太く消防のしるしの赤線が縦にずんと引かれてゐました。流石にそれをはいて歩く勇気も無く、少年は淋しく股引をあきらめる他なかつたのです。」
 さすがの馬鹿の本場に於いても、これくらゐの馬鹿は少かつたかも知れない。書き写しながら作者自身、すこし憂鬱になつた。この、芸者たちと一緒にごはんを食べた割烹店の在る花街を、榎《えのき》小路、とは言はなかつたかしら。何しろ二十年ちかく昔の事であるから、記憶も薄くなつてはつきりしないが、お宮の坂の下の、榎《えのき》小路、といふところだつたと覚えてゐる。また、紺の股引を買ひに汗だくで歩き廻つたところは、土手《どて》町といふ城下に於いて最も繁華な商店街である。それらに較べると、青森の花街の名は、浜町である。その名に個性がないやうに思はれる。弘前の土手町に相当する青森の商店街は、大町と呼ばれてゐる。これも同様のやうに思はれる。ついでだから、弘前の町名と、青森の町名とを次に列記してみよう。この二つの小都会の性格の相違が案外はつきりして来るかも知れない。本町、在府町、土手町、住吉町、桶屋町、銅屋町、茶畑町、代官町、萱町、百石町、上鞘師町、下鞘師町、鉄砲町、若党町、小人町、鷹匠町、五十石町、紺屋町、などといふのが弘前市の街の名である。それに較べて、青森市の街々の名は、次のやうなものである。浜町、新浜町、大町、米町、新町、柳町、寺町、堤町、塩町、蜆貝町、新蜆貝町、浦町、浪打、栄町。
 けれども私は、弘前市を上等のまち、青森市を下等の町だと思つてゐるのでは決してない。鷹匠町、紺屋町などの懐古的な名前は何も弘前市にだけ限つた町名ではなく、日本全国の城下まちに必ず、そんな名前の町があるものだ。なるほど弘前市の岩木山は、青森市の八甲田山よりも秀麗である。けれども、津軽出身の小説の名手、葛西善蔵氏は、郷土の後輩にかう言つて教へてゐる。「自惚れちやいけないぜ。岩木山が素晴らしく見えるのは、岩木山の周囲に高い山が無いからだ。他の国に行つてみろ。あれくらゐの山は、ざらにあら。周囲に高い山がないから、あんなに有難く見えるんだ。自惚れちやいけないぜ。」
 歴史を有する城下町は、日本全国に無数と言つてよいくらゐにたくさんあるのに、どうして弘前の城下町の人たちは、あんなに依怙地にその封建性を自慢みたいにしてゐるのだらう。ひらき直つて言ふまでも無い事だが、九州、西国、大和などに較べると、この津軽地方などは、ほとんど一様に新開地と言つてもいいくらゐのものなのだ。全国に誇り得るどのやうな歴史を有してゐるのか。近くは明治御維新の時だつて、この藩からどのやうな勤皇家が出たか。藩の態度はどうであつたか。露骨に言へば、ただ、他藩の驥尾に附して進退しただけの事ではなかつたか。どこにいつたい誇るべき伝統があるのだ。けれども弘前人は頑固に何やら肩をそびやかしてゐる。さうして、どんなに勢強きものに対しても、かれは賤しきものなるぞ、ただ時の
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