心で、江戸時代には、ずいぶん栄えた港らしく、津軽の米の大部分はここから積出され、また大阪廻りの和船の発着所でもあつたやうだし、水産物も豊富で、ここの浜にあがつたさかなは、御城下をはじめ、ひろく津軽平野の各地方に於ける家々の食膳を賑はしたものらしい。けれども、いまは、人口も四千五百くらゐ、木造、深浦よりも少いやうな具合で、往年の隆々たる勢力を失ひかけてゐるやうだ。鰺ヶ沢といふからには、きつと昔の或る時期に、見事な鰺がたくさんとれたところかとも思はれるが、私たちの幼年時代には、ここの鰺の話はちつとも聞かず、ただ、ハタハタだけが有名であつた。ハタハタは、このごろ東京にも時たま配給されるやうであるから、読者もご存じの事と思ふが、鰰、または※[#「魚+雷」、第4水準2−93−86]などといふ字を書いて、鱗の無い五、六寸くらゐのさかなで、まあ、海の鮎とでも思つていただいたら大過ないのではあるまいか。西海岸の特産で、秋田地方がむしろ本場のやうである。東京の人たちは、あれを油つこくていやだと言つてゐるやうだけれど、私たちには非常に淡泊な味のものに感ぜられる。津軽では、あたらしいハタハタを、そのまま薄醤油で煮て片端から食べて、二十匹三十匹を平気でたひらげる人は決して珍らしくない。ハタハタの会などがあつて、一ばん多く食べた人には賞品、などといふ話もしばしば聞いた。東京へ来るハタハタは古くなつてゐるし、それに料理法も知らないだらうから、ことさらまづいものに感ぜられるのであらう。俳句の歳時記などにも、ハタハタが出てゐるやうだし、また、ハタハタの味は淡いといふ意味の江戸時代の俳人の句を一つ読んだ記憶もあるし、あるいは江戸の通人には、珍味とされてゐたものかも知れない。いづれにもせよ、このハタハタを食べる事は、津軽の冬の炉辺のたのしみの一つであるといふ事には間違ひない。私は、そのハタハタに依つて、幼年時代から鰺ヶ沢の名を知つてはゐたのだが、その町を見るのは、いまがはじめてであつた。山を背負ひ、片方はすぐ海の、おそろしくひよろ長い町である。市中はものの匂ひや、とかいふ凡兆の句を思ひ出させるやうな、妙によどんだ甘酸つぱい匂ひのする町である。川の水も、どろりと濁つてゐる。どこか、疲れてゐる。木造町のやうに、ここにも長い「コモヒ」があるけれども、少し崩れかかつてゐる、リ造町のコモヒのやうな涼しさが無い。その日も、ひどくいい天気だつたが、日ざしを避けて、コモヒを歩いてゐても、へんに息づまるやうな気持がする。飲食店が多いやうである。昔は、ここは所謂銘酒屋のやうなものが、ずいぶん発達したところではあるまいかと思はれる。今でも、そのなごりか、おそばやが四、五軒、軒をつらねて、今の時代には珍らしく「やすんで行きせえ。」などと言つて道を通る人に呼びかけてゐる。ちやうどお昼だつたので、私は、そのおそばやの一軒にはひつて、休ませてもらつた。おそばに、焼ざかなが二皿ついて、四十銭であつた。おそばのおつゆも、まづくなかつた。それにしても、この町は長い。海岸に沿うた一本街で、どこ迄行つても、同じやうな家並が何の変化もなく、だらだらと続いてゐるのである。私は、一里歩いたやうな気がした。やつと町のはづれに出て、また引返した。町の中心といふものが無いのである。たいていの町には、その町の中心勢力が、ある箇所にかたまり、町の重《おもし》になつてゐて、その町を素通りする旅人にも、ああ、この辺がクライマツクスだな、と感じさせるやうに出来てゐるものだが、鰺ヶ沢にはそれが無い。扇のかなめがこはれて、ばらばらに、ほどけてゐる感じだ。これでは町の勢力あらそひなど、ごたごたあるのではなからうかと、れいのドガ式政談さへ胸中に往来したほど、どこか、かなめの心細い町であつた。かう書きながら、私は幽かに苦笑してゐるのであるが、深浦といひ鰺ヶ沢といひ、これでも私の好きな友人なんかがゐて、ああよく来てくれた、と言つてよろこんで迎へてくれて、あちこち案内し説明などしてくれたならば、私はまた、たわいなく、自分の直感を捨て、深浦、鰺ヶ沢こそ、津軽の粋である、と感激の筆致でもつて書きかねまいものでもないのだから、実際、旅の印象記などあてにならないものである。深浦、鰺ヶ沢の人は、もしこの私の本を読んでも、だから軽く笑つて見のがしてほしい。私の印象記は、決して本質的に、君たちの故土を汚すほどの権威も何も持つてゐないのだから。
鰺ヶ沢の町を引上げて、また五能線に乗つて五所川原町に帰り着いたのは、その日の午後二時。私は駅から、まつすぐに、中畑さんのお宅へ伺つた。中畑さんの事は、私も最近、「帰去来」「故郷」など一聯の作品によく書いて置いた筈であるから、ここにはくどく繰り返さないが、私の二十代に於けるかずかずの不仕鱈の後仕末を、少しもいや
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