うつとりしてしまつた。岩木川が細い銀線みたいに、キラキラ光つて見える。その銀線の尽きるあたりに、古代の鏡のやうに鈍く光つてゐるのは、田光《たつぴ》沼であらうか。さらにその遠方に模糊と煙るが如く白くひろがつてゐるのは、十三湖らしい。十三湖あるいは十三|潟《がた》と呼ばれて、「津軽大小の河水凡そ十有三の派流、この地に落合ひて大湖となる。しかも各河川固有の色を失はず。」と「十三往来」に記され、津軽平野北端の湖で、岩木川をはじめ津軽平野を流れる大小十三の河川がここに集り、周囲は約八里、しかし、河川の運び来る土砂の為に、湖底は浅く、最も深いところでも三メートルくらゐのものだといふ。水は、海水の流入によつて鹹水であるが、岩木川からそそぎ這入る河水も少くないので、その河口のあたりは淡水で、魚類も淡水魚と鹹水魚と両方宿り住んでゐるといふ。湖が日本海に開いてゐる南口に、十三といふ小さい部落がある。この辺は、いまから七、八百年も前からひらけて、津軽の豪族、安東氏の本拠であつたといふ説もあり、また江戸時代には、その北方の小泊港と共に、津軽の木材、米穀を積出し、殷盛を極めたとかいふ話であるが、いまはその一片の面影も無いやうである。その十三湖の北に権現崎が見える。しかし、この辺から、国防上重要の地域にはひる。私たちは眼を転じて、前方の岩木川のさらに遠方の青くさつと引かれた爽やかな一線を眺めよう。日本海である。七里長浜、一眸の内である。北は権現崎より、南は大戸瀬崎まで、眼界を遮ぎる何物も無い。
「これはいい。僕だつたら、ここへお城を築いて、」と言ひかけたら、
「冬はどうします?」と陽子につつ込まれて、ぐつとつまつた。
「これで、雪が降らなければなあ。」と私は、幽かな憂鬱を感じて歎息した。
山の陰の谷川に降りて、河原で弁当をひらいた。渓流にひやしたビールは、わるくなかつた。姪とアヤは、リンゴ液を飲んだ。そのうちに、ふと私は見つけた。
「蛇!」
お婿さんは脱ぎ捨てた上衣をかかへて腰をうかした。
「大丈夫、大丈夫。」と私は谷川の対岸の岩壁を指差して言つた。「あの岩壁に這ひ上らうとしてゐるのです。」奔湍から首をぬつと出して、見る見る一尺ばかり岩壁によぢ登りかけては、はらりと落ちる。また、するすると登りかけては、落ちる。執念深く二十回ほどそれを試みて、さすがに疲れてあきらめたか、流れに押流されるやうにして長々と水面にからだを浮かせたままこちらの岸に近づいて来た。アヤは、この時、立ち上つた。一間ばかりの木の枝を持ち、黙つて走つて行つて、ざんぶと渓流に突入し、ずぶりとやつた。私たちは眼をそむけ、
「死んだか、死んだか。」私は、あはれな声を出した。
「片附けました。」アヤは、木の枝も一緒に渓流にはふり投げた。
「まむしぢやないか。」私は、それでも、まだ恐怖してゐた。
「まむしなら、生捕りにしますが、いまのは、青大将でした。まむしの生胆は薬になります。」
「まむしも、この山にゐるのかね。」
「はい。」
私は、浮かぬ気持で、ビールを飲んだ。
アヤは、誰よりも早くごはんをすまして、それから大きい丸太を引ずつて来て、それを渓流に投げ入れ、足がかりにして、ひよいと対岸に飛び移つた。さうして、対岸の山の絶壁によぢ登り、ウドやアザミなど、山菜を取り集めてゐる様子である。
「あぶないなあ。わざわざ、あんな危いところへ行かなくつたつて、他のところにもたくさん生えてゐるのに。」私は、はらはらしながらアヤの冒険を批評した。「あれはきつと、アヤは興奮して、わざとあんな危いところへ行き、僕たちにアヤの勇敢なところを大いに見せびらかさうといふ魂胆に違ひない。」
「さうよ、さうよ。」と姪も大笑ひしながら、賛成した。
「アヤあ!」と私は大声で呼びかけた。「もう、いい。あぶないから、もう、いい。」
「はい。」とアヤは答へて、するすると崖から降りた。私は、ほつとした。
帰りは、アヤの取り集めた山菜を、陽子が背負つた。この姪は、もとから、なりも振りも、あまりかまはない子であつた。帰途は、外ヶ浜に於ける「いまだ老いざる健脚家」も、さすがに疲れて、めつきり無口になつてしまつた。山から降りたら、郭公が鳴いてゐる。町はづれの製材所には、材木がおびただしく積まれてゐて、トロツコがたえず右往左往してゐる。ゆたかな里の風景である。
「金木も、しかし、活気を呈して来ました。」と、私はぽつんと言つた。
「さうですか。」お婿さんも、少し疲れたらしい。もの憂さうに、さう言つた。
私は急にてれて、
「いやあ、僕なんかには、何もわかりやしませんけど、でも、十年前の金木は、かうぢやなかつたやうな気がします。だんだん、さびれて行くばかりの町のやうに見えました。いまのやうぢやなかつた。いまは何か、もりかへしたやうな感じがします
前へ
次へ
全57ページ中42ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング