でせうか。」私は、れいに依つて専門家に向ひ、半可通を振りまはした。
「大丈夫でせう。このごろは寒ければ寒いで、対策も考へて居りますから。苗の発育も、まあ、普通のやうです。」
「さうですか。」と私は、もつともらしい顔をして首肯き、「僕の知識は、きのふ汽車の窓からこの津軽平野を眺めて得ただけのものなのですが、馬耕といふんですか、あの馬に挽かせて田を打ちかへすあれを、牛に挽かせてやつてゐるのがずいぶん多いやうですね。僕たちの子供の頃には、馬耕に限らず、荷車を挽かせるのでも何でも、全部、馬で、牛を使役するといふ事は、ほとんど無かつたんですがね。僕なんか、はじめて東京へ行つた時、牛が荷車を挽いてゐるのを見て、奇怪に感じた程です。」
「さうでせう。馬はめつきり少くなりました。たいてい、出征したのです。それから、牛は飼養するのに手数がかからないといふ関係もあるでせうね。でも、仕事の能率の点では、牛は馬の半分、いや、もつともつと駄目かも知れません。」
「出征といへば、もう、――」
「僕ですか? もう、二度も令状をいただきましたが、二度とも途中でかへされて、面目ないんです。」健康な青年の、くつたくない笑顔はいいものだ。「こんどは、かへされたくないと思つてゐるんですが。」自然な口調で、軽く言つた。
「この地方に、これは偉い、としんから敬服出来るやうな、隠れた大人物がゐないものでせうか。」
「さあ、僕なんかには、よくわかりませんけど、篤農家などと言はれてゐる人の中に、ひよつとしたら、あるんぢやないでせうか。」
「さうでせうね。」私は大いに同感だつた。「僕なんかも、理窟は下手だし、まあ篤文家とでもいつたやうな痴《こけ》の一念で生きて行きたいと思つてゐるのですが、どうも、つまらぬ虚栄などもあつて、常識的な、きざつたらしい事になつてしまつて、ものになりません。しかし、篤農家も、篤農家としてあまり大きいレツテルをはられると、だめになりはしませんか。」
「さう。さうです。新聞社などが無責任に矢鱈に騒ぎ立て、ひつぱり出して講演をさせたり何かするので、せつかくの篤農家も妙な男になつてしまふのです。有名になつてしまふと、駄目になります。」
「まつたくですね。」私はそれにも同感だつた。「男つて、あはれなものですからね。名声には、もろいものです。ジヤアナリズムなんて、もとをただせば、アメリカあたりの資本家の発明したもので、いい加減なものですからね。毒薬ですよ。有名になつたとたんに、たいてい腑抜けになつてゐますからね。」私は、へんなところで自分の一身上の鬱憤をはらした。こんな不平家は、しかし、さうは言つても、内心では有名になりたがつてゐるといふやうな傾向があるから、注意を要する。
 ひるすぎ、私は傘さして、雨の庭をひとりで眺めて歩いた。一木一草も変つてゐない感じであつた。かうして、古い家をそのまま保持してゐる兄の努力も並たいていではなからうと察した。池のほとりに立つてゐたら、チヤボリと小さい音がした。見ると、蛙が飛び込んだのである。つまらない、あさはかな音である。とたんに私は、あの、芭蕉翁の古池の句を理解できた。私には、あの句がわからなかつた。どこがいいのか、さつぱり見当もつかなかつた。名物にうまいものなし、と断じてゐたが、それは私の受けた教育が悪かつたせゐであつた。あの古池の句に就いて、私たちは学校で、どんな説明を与へられてゐたか。森閑たる昼なほ暗きところに蒼然たる古池があつて、そこに、どぶうんと(大川へ身投げぢやあるまいし)蛙が飛び込み、ああ、余韻嫋々、一鳥蹄きて山さらに静かなりとはこの事だ、と教へられてゐたのである。なんといふ、思はせぶりたつぷりの、月並《つきなみ》な駄句であらう。いやみつたらしくて、ぞくぞくするわい。鼻持ちならん、と永い間、私はこの句を敬遠してゐたのだが、いま、いや、さうぢやないと思ひ直した。どぶうん、なんて説明をするから、わからなくなつてしまふのだ。余韻も何も無い。ただの、チヤボリだ。謂はば世の中のほんの片隅の、実にまづしい音なのだ。貧弱な音なのだ。芭蕉はそれを聞き、わが身につまされるものがあつたのだ。古池や蛙飛び込む水の音。さう思つてこの句を見直すと、わるくない。いい句だ。当時の檀林派のにやけたマンネリズムを見事に蹴飛ばしてゐる。謂はば破格の着想である。月も雪も花も無い。風流もない。ただ、まづしいものの、まづしい命だけだ。当時の風流宗匠たちが、この句に愕然としたわけも、それでよくわかる。在来の風流の概念の破壊である。革新である。いい芸術家は、かう来なくつちや嘘だ、とひとりで興奮して、その夜、旅の手帖にかう書いた。
「山吹や蛙飛び込む水の音。其角、ものかは。なんにも知らない。われと来て遊べや親の無い雀。すこし近い。でも、あけすけでいや味《み》。
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