歩いて来た路をまた歩いて三厩まで来て、三厩で昼食をとり、それからバスでまつすぐに蟹田のN君の家へ帰つて来た。歩いてみると、しかし、津軽もそんなに小さくはない。その翌々日の昼頃、私は定期船でひとり蟹田を発ち、青森の港に着いたのは午後の三時、それから奥羽線で川部まで行き、川部で五能線に乗りかへて五時頃五所川原に着き、それからすぐ津軽鉄道で津軽平野を北上し、私の生れた土地の金木町に着いた時には、もう薄暗くなつてゐた。蟹田と金木と相隔たる事、四角形の一辺に過ぎないのだが、その間に梵珠山脈があつて山中には路らしい路も無いやうな有様らしいので、仕方なく四角形の他の三辺を大迂回して行かなければならぬのである。金木の生家に着いて、まづ仏間へ行き、嫂がついて来て仏間の扉を一ぱいに開いてくれて、私は仏壇の中の父母の写真をしばらく眺め、ていねいにお辞儀をした。それから、常居《じよゐ》といふ家族の居間にさがつて、改めて嫂に挨拶した。
「いつ、東京を?」と嫂は聞いた。
私は東京を出発する数日前、こんど津軽地方を一周してみたいと思つてゐますが、ついでに金木にも立寄り、父母の墓参をさせていただきたいと思つてゐますから、その折にはよろしくお願ひします、といふやうな葉書を嫂に差上げてゐたのである。
「一週間ほど前です。東海岸で、手間どつてしまひました。蟹田のN君には、ずいぶんお世話になりました。」N君の事は、嫂も知つてゐる筈だつた。
「さう。こちらではまた、お葉書が来ても、なかなかご本人がお見えにならないので、どうしたのかと心配してゐました。陽子や光《みつ》ちやんなどは、とても待つて、毎日交代に停車場へ出張してゐたのですよ。おしまひには、怒つて、もう来たつて知らない、と言つてゐた人もありました。」
陽子といふのは長兄の長女で、半年ほど前に弘前の近くの地主の家へお嫁に行き、その新郎と一緒にちよいちよい金木へ遊びに来るらしく、その時も、お二人でやつて来てゐたのである。光ちやんといふのは、私たちの一ばん上の姉の末娘で、まだ嫁がず金木の家へいつも手伝ひに来てゐる素直な子である。その二人の姪が、からみ合ひながら、えへへ、なんておどけた笑ひ方をして出て来て、酒飲みのだらしない叔父さんに挨拶した。陽子は女学生みたいで、まだ少しも奥さんらしくない。
「をかしい恰好。」と私の服装をすぐに笑つた。
「ばか。これが、東京のはやりさ。」
嫂に手をひかれて、祖母も出て来た。八十八歳である。
「よく来た。ああ、よく来た。」と大声で言ふ。元気な人だつたが、でも、さすがに少し弱つて来てゐるやうにも見えた。
「どうしますか。」と嫂は私に向つて、「ごはんは、ここで食べますか。二階に、みんなゐるんですけど。」
陽子のお婿さんを中心に、長兄や次兄が二階で飲みはじめてゐる様子である。
兄弟の間では、どの程度に礼儀を保ち、またどれくらゐ打ち解けて無遠慮にしたらいいものか、私にはまだよくわかつてゐない。
「お差支へなかつたら、二階へ行きませうか。」ここでひとりで、ビールなど飲んでゐるのも、いぢけてゐるみたいで、いやらしい事だと思つた。
「どちらだつて、かまひませんよ。」嫂は笑ひながら、「それぢや、二階へお膳を。」と光ちやんたちに言ひつけた。
私はジヤンパー姿のままで二階に上つて行つた。金襖の一ばんいい日本間《にほんま》で、兄たちは、ひつそりお酒を飲んでゐた。私はどたばたとはひり、
「修治です。はじめて。」と言つて、まづお婿さんに挨拶して、それから長兄と次兄に、ごぶさたのお詫びをした。長兄も次兄も、あ、と言つて、ちよつと首肯いたきりだつた。わが家の流儀である。いや、津軽の流儀と言つていいかも知れない。私は慣れてゐるので平気でお膳について、光ちやんと嫂のお酌で、黙つてお酒を飲んでゐた。お婿さんは、床柱をうしろにして坐つて、もうだいぶお顔が赤くなつてゐる。兄たちも、昔はお酒に強かつたやうだが、このごろは、めつきり弱くなつたやうで、さ、どうぞ、もうひとつ、いいえ、いけません、そちらさんこそ、どうぞ、などと上品にお互ひゆづり合つてゐる。外ヶ浜で荒つぽく飲んで来た私には、まるで竜宮か何か別天地のやうで、兄たちと私の生活の雰囲気の差異に今更のごとく愕然とし、緊張した。
「蟹は、どうしませう。あとで?」と嫂は小声で私に言つた。私は蟹田の蟹を少しお土産に持つて来たのだ。
「さあ。」蟹といふものは、どうも野趣がありすぎて上品のお膳をいやしくする傾きがあるので私はちよつと躊躇した。嫂も同じ気持だつたのかも知れない。
「蟹?」と長兄は聞きとがめて、「かまひませんよ。持つて来なさい。ナプキンも一緒に。」
今夜は、長兄もお婿さんがゐるせゐか、機嫌がいいやうだ。
蟹が出た。
「おあがり、なさいませんか。」と長兄はお婿さ
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