。年五十八。
「津軽平野」陸奥国、南・中・北、三津軽郡に亘る平野。岩木川の河谷なり。東は十和田湖の西より北走する津軽半島の脊梁をなす山脈を限とし、南は羽後境の矢立峠・立石越等により分水線を劃し、西は岩木山塊と海岸一帯の砂丘(屏風山と称す)に擁蔽せらる。岩木川は其本流西方よりし、南より来る平《ヒラ》川及び東より来る浅瀬石《アサセイシ》川と弘前市の北にて会合し、正北に流れ、十三潟に注ぎて後、海に入る。平野の広袤、南北約十五里、東西の幅約五里、北するに随つて幅は縮小し、木造・五所川原の線にて三里、十三潟の岸に到れば僅かに一里なり。此間土地低平、支流溝渠網の如く通じ、青森県産米は、大部分此平野より出づ。
[#地から2字上げ](以上、日本百科大辞典に拠る)
津軽の歴史は、あまり人に知られてゐない。陸奥も青森県も津軽と同じものだと思つてゐる人さへあるやうである。無理もない事で、私たちの学校で習つた日本歴史の教科書には、津軽といふ名詞が、たつた一箇所に、ちらと出てゐるだけであつた。すなはち、阿倍比羅夫の蝦夷討伐のところに、「幸徳天皇が崩ぜられて、斉明天皇がお立ちになるや、中大兄皇子は、引続き皇太子として政をお輔けになり、阿倍比羅夫をして、今の秋田・津軽の地方を平げしめられた。」といふやうな文章があつて、津軽の名前も出て来るが、本当にもう、それつきり、小学校の教科書にも、また中学校の教科書にも、高等学校の講義にも、その比羅夫のところの他には津軽なんて名前は出て来ない。皇紀五百七十三年の四道将軍の派遣も、北方は今の福島県あたり迄だつたやうだし、それから約二百年後の日本武尊の蝦夷御平定も北は日高見国までのやうで、日高見国といふのは今の宮城県の北部あたりらしく、それから約五百五十年くらゐ経つて大化改新があり、阿倍比羅夫の蝦夷征伐に依つて、はじめて津軽の名前が浮び上り、また、それつ切り沈んで、奈良時代には多賀城(今の仙台市附近)秋田城(今の秋田市)を築いて蝦夷を鎮められたと伝へられてゐるだけで津軽の名前はも早や出て来ない。平安時代になつて、坂上田村麻呂が遠く北へ進んで蝦夷の根拠地をうち破り、胆沢城《いざはじやう》(今の岩手県水沢町附近)を築いて鎮所となしたとあるが、津軽まではやつて来なかつたやうである。その後、弘仁年間には文室綿麻呂の遠征があり、また元慶二年には出羽蝦夷の叛乱があり藤原保則その平定に赴き、その叛乱には津軽蝦夷も荷担してゐたとかいふ事であるが、専門家でもない私たちは、蝦夷征伐といへば田村麻呂、その次には約二百五十年ばかり飛んで源平時代初期の、前九年後三年の役を教へられてゐるばかりである。この前九年後三年の役だつて、舞台は今の岩手県・秋田県であつて、安倍氏清原氏などの所謂|熟蝦夷《ニギエゾ》が活躍するばかりで、都加留《ツガル》などといふ奥地の純粋の蝦夷の動静に就いては、私たちの教科書には少しも記されてゐなかつた。それから藤原氏三代百余年間の平泉の栄華があり、文治五年、源頼朝に依つて奥州は平定せられ、もうその頃から、私たちの教科書はいよいよ東北地方から遠ざかり、明治維新にも奥州諸藩は、ただちよつと立つて裾をはたいて坐り直したといふだけの形で、薩長土の各藩に於けるが如ォ積極性は認められない。まあ、大過なく時勢に便乗した、と言はれても、仕方の無いやうなところがある。結局、もう、何も無い。私たちの教科書、神代の事は申すもかしこし、神武天皇以来現代まで、阿倍比羅夫ただ一個所に於いて「津軽」の名前を見つける事が出来るだけだといふのは、まことに心細い。いつたい、その間、津軽では何をしてゐたのか。ただ、裾をはたいて坐り直し、また裾をはたいて坐り直し、二千六百年間、一歩も外へ出ないで、眼をぱちくりさせてゐただけの事なのか。いやいやさうではないらしい。ご当人に言はせると、「かう見えても、これでなかなか忙がしくてねえ。」といふやうなところらしい。
「奥羽とは奥州、出羽の併称で、奥州とは陸奥《むつ》州の略称である。陸奥とは、もと白河、勿来の二関以北の総称であつた。名義は『道の奥』で、略されて『みちのく』となつた。その『みち』の国の名を、古い地方音によつて『むつ』と発音し、『むつ』の国となつた。この地方は東海東山両道の末をうけて、一番奥にある異民族住居の国であつたから、漠然と道の奥と呼んだに他ならぬ。漢字『陸』は『道』の義である。
次に出羽は『いでは』で、出端《いではし》の義と解せられる。古は本州中部から東北の日本海方面地方を、漠然と越《こし》の国と呼んだ。これも奥の方は、陸奥《みちのく》と同じく、久しく異民族住居の化外の地で、これを出端《いではし》と言つたのであらう。即ち太平洋方面なる陸奥と共に、もと久しく王化の外に置かれた僻陬であつたことを、その名に示して
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