学談は一般向きでないね。ヘンテコなところがある。だから、いつまで経つても有名にならん。貞伝和尚なんかはね、」とN君は、かなり酔つてゐた。「貞伝和尚なんかはね、仏の教へを説くのは後まはしにして、まづ民衆の生活の福利増進を図つてやつた。さうでもなくちや、民衆なんか、仏の教へも何も聞きやしないんだ。貞伝和尚は、或いは産業を興し、或いは、」と言ひかけて、ひとりで噴き出し、「まあ、とにかく行つて見よう。今別へ来て本覚寺を見なくちや恥です。貞伝和尚は、外ヶ浜の誇りなんだ。さう言ひながら、実は、僕もまだ見てゐないんだ。いい機会だから、けふは見に行きたい。みんなで一緒に見に行かうぢやないか。」
 私は、ここで飲みながらMさんと、所謂ヘンテコなところのある文学談をしてゐたかつた。Mさんも、さうらしかつた。けれども、N君の貞伝和尚に対する情熱はなかなかのもので、たうとう私たちの重い尻を上げさせてしまつた。
「それぢや、その本覚寺に立寄つて、それからまつすぐに三厩まで歩いて行つてしまはう。」私は玄関の式台に腰かけてゲートルを巻き附けながら、「どうです、あなたも。」と、Mさんを誘つた。
「はあ、三厩までお供させていただきます。」
「そいつあ有難い。この勢ひぢや、町会議員は今夜あたり、三厩の宿で蟹田町政に就いて長講一席やらかすんぢやないかと思つて、実は、憂鬱だつたんです。あなたが附合つてくれると、心強い。奥さん、御主人を今夜、お借りします。」
「はあ。」とだけ言つて、微笑する。少しは慣れた様子であつた。いや、あきらめたのかも知れない。
 私たちはお酒をそれぞれの水筒につめてもらつて、大陽気で出発した。さうして途中も、N君は、テイデン和尚、テイデン和尚、と言ひ、頗るうるさかつたのである。お寺の屋根が見えて来た頃、私たちは、魚売の小母さんに出逢つた。曳いてゐるリヤカーには、さまざまのさかなが一ぱい積まれてゐる。私は二尺くらゐの鯛を見つけて、
「その鯛は、いくらです。」まるつきり見当が、つかなかつた。
「一円七十銭です。」安いものだと思つた。
 私は、つい、買つてしまつた。けれども、買つてしまつてから、仕末に窮した。これからお寺へ行くのである。二尺の鯛をさげてお寺へ行くのは奇怪の図である。私は途方にくれた。
「つまらんものを買つたねえ。」とN君は、口をゆがめて私を軽蔑した。「そんなものを買つてどうするの?」
「いや、三厩の宿へ行つて、これを一枚のままで塩焼きにしてもらつて、大きいお皿に載せて三人でつつかうと思つてね。」
「どうも、君は、ヘンテコな事を考へる。それでは、まるでお祝言か何かみたいだ。」
「でも、一円七十銭で、ちよつと豪華な気分にひたる事も出来るんだから、有難いぢやないか。」
「有難かないよ。一円七十銭なんて、この辺では高い。実に君は下手な買ひ物をした。」
「さうかねえ。」私は、しよげた。
 たうとう私は二尺の鯛をぶらさげたまま、お寺の境内にはひつてしまつた。
「どうしませう。」と私は小声でMさんに相談した。「弱りました。」
「さうですね。」Mさんは真面目な顔して考へて、「お寺へ行つて新聞紙か何かもらつて来ませう。ちよつと、ここで待つてゐて下さい。」
 Mさんはお寺の庫裏のはうに行き、やがて新聞紙と紐を持つて来て、問題の鯛を包んで私のリユツクサツクにいれてくれた。私は、ほつとして、お寺の山門を見上げたりなどしたが、別段すぐれた建築とも見えなかつた。
「たいしたお寺でもないぢやないか。」と私は小声でN君に言つた。
「いやいや、いやいや。外観よりも内容がいいんだ。とにかく、お寺へはひつて坊さんの説明でも聞きませう。」
 私は気が重かつた。しぶしぶN君の後について行つたが、それから、実にひどいめに逢つた。お寺の坊さんはお留守のやうで、五十年配のおかみさんらしいひとが出て来て、私たちを本堂に案内してくれて、それから、長い長い説明がはじまつた。私たちは、きちんと膝を折つて、かしこまつて拝聴してゐなければならぬのである。説明がちよつと一区切ついて、やれうれしやと立上らうとすると、N君は膝をすすめて、
「しからば、さらにもう一つお尋ねいたしますが、」と言ふのである。「いつたい、このお寺はテイデン和尚が、いつごろお作りになつたものなのでせうか。」
「何をおつしやつてゐるのです。貞伝上人様はこのお寺を御草創なさつたのではございませんよ。貞伝上人様は、このお寺の中興開山、五代目の上人様でございまして、――」と、またもや長い説明が続く。
「さうでしたかな。」とN君は、きよとんとして、「しからば、さらにお尋ねいたしますが、このテイザン和尚は、」テイザン和尚と言つた。まつたく滅茶苦茶である。
 N君は、ひとり熱狂して膝をすすめ膝をすすめ、つひにはその老婦人の膝との間隔が紙一
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