木へ来た時、兄の持つてゐる綾足の画を見せてもらつて、はじめて、津軽にもこんな偉い画家がゐたといふ事を知つた次第なのである。
「あれは、また、べつのもので。」と兄は全く気乗りのしないやうな口調で呟いて、椅子に腰をおろした。私たちは皆、立つて屏風の絵を眺めてゐたのだが、兄が坐つたので、お婿さんもそれと向ひ合つた椅子に腰をかけ、私は少し離れて、入口の傍のソフアに腰をおろした。
「この人などは、まあ、これで、ほんすぢでせうから。」とやはりお婿さんのはうを向いて言つた。兄は前から、私には、あまり直接話をしない。
さう言へば、綾足のぼつてりした重量感には、もう少しどうかするとゲテモノに落ちさうな不安もある。
「文化の伝統、といひますか、」兄は背中を丸めてお婿さんの顔を見つめ、「やつぱり、秋田には、根強いものがあると思ひます。」
「津軽は、だめか。」何を言つても、ぶざまな結果になるので、私はあきらめて、笑ひながらひとりごとを言つた。
「こんど、津軽の事を何か書くんだつて?」と兄は、突然、私に向つて話しかけた。
「ええ、でも、何も、津軽の事なんか知らないので、」と私はしどろもどろになり、「何か、いい参考書でも無いでせうか。」
「さあ、」と兄は笑ひ、「わたしも、どうも、郷土史にはあまり興味が無いので。」
「津軽名所案内といつたやうな極く大衆的な本でも無いでせうか。まるで、もう、何も知らないのですから。」
「無い、無い。」と兄は私のずぼらに呆れたやうに苦笑しながら首を振つて、それから立ち上つてお婿さんに、
「それぢやあ、わたしは農会へちよつと行つて来ますから、そこらにある本でも御覧になつて、どうも、けふはお天気がわるくて。」と言つて出かけて行つた。
「農会も、いま、いそがしいのでせうね。」と私はお婿さんに尋ねた。
「ええ、いま、ちやうど米の供出割当の決定があるので、たいへんなのです。」とお婿さんは若くても、地主だから、その方面の事はよく知つてゐる。いろいろこまかい数字を挙げて説明してくれたが、私には、半分もわからなかつた。
「僕などは、いままで米の事などむきになつて考へた事は無かつたやうなものなのですが、でも、こんな時代になつて来ると、やはり汽車の窓から水田をそれこそ、わが事のやうに一喜一憂して眺めてゐるのですね。ことしは、いつまでも、こんなにうすら寒くて、田植ゑもおくれるんぢやない
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