ある、と主張する事等から起つて居るらしい。勿論、事実に於いて南部高信は津軽為信のために亡ぼされ、津軽郡中の南部方の諸城は奪取せられて居るのみならず、為信数代の祖大浦光信の母は、南部久慈備前守の女であり、以後数代南部信濃守と称して居る家柄であつたから、南部氏の津軽家に対し一族の裏切者として深怨を含んで居る事も無理のない事と思ふ。なほ、津軽家はその遠祖を藤原、近衛家などに求めてゐるが、現在より見ては、必ずしも吾等を首肯せしむる根本証拠を伴うて居るものではない。南部氏に非ず、との弁護の立場を取つて居る可足記の如きも、甚だ力弱い論旨を示して居る。古くは津軽に於いても高屋家記の如きは、大浦氏を以て南部家の支族とし、木立日記にも『南部様津軽様御家は御一体なり』と云ひ、近来出版になつた読史備要等も為信を久慈氏(南部氏一族)として居る事に対し、それを否定すべき確実なる資料は、今のところ無いやうに思ふ。しかし津軽には過去にこそ南部の血統もあり、また被官ではあつても、血統の他の一面にはどんな由緒のものもないとは云へない。」と喜田博士同様、断乎たる結論は避けてゐる。それを簡明直截に疑はず規定してゐるのは、日本百科大辞典だけであつたから、一つの参考としてこの章のはじめに載せて置いた。
以上くだくだしく述べて来たが、考へてみると、津軽といふのは、日本全国から見てまことに渺たる存在である。芭蕉の「奥の細道」には、その出発に当り、「前途三千里のおもひ胸にふさがりて」と書いてあるが、それだつて北は平泉、いまの岩手県の南端に過ぎない。青森県に到達するには、その二倍歩かなければならぬ。さうして、その青森県の日本海寄りの半島たつた一つが津軽なのである。昔の津軽は、全流程二十二里八町の岩木川に沿うてひらけた津軽平野を中心に、東は青森、浅虫あたり迄、西は日本海々岸を北から下つてせいぜい深浦あたり迄、さうして南は、まあ弘前迄といつていいだらう。分家の黒石藩が南にあるが、この辺にはまた黒石藩としての独自の伝統もあり、津軽藩とちがつた所謂文化的な気風も育成せられてゐるやうだから、これは除いて、さうして、北端は竜飛である。まことに心細いくらゐに狭い。これでは、中央の歴史に相手にされなかつたのも無理はないと思はれて来る。私は、その「道の奥」の奥の極点の宿で一夜を明し、翌る日、やつぱりまだ船が出さうにも無いので、前日
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