もう無くなつた。」私は驚いた。「ばかに早いね。早すぎるよ。」
「そんなに飲んだかね。」とN君も、いぶかしさうな顔をして、からのお銚子を一本づつ振つて見て、「無い。何せ寒かつたもので、無我夢中で飲んだらしいね。」
「どのお銚子にも、こぼれるくらゐ一ぱいお酒がはひつてゐたんだぜ。こんなに早く飲んでしまつて、もう六本なんて言つたら、お婆さんは僕たちを化物ぢやないかと思つて警戒するかも知れない。つまらぬ恐怖心を起させて、もうお酒はかんべんして下さいなどと言はれてもいけないから、ここは、持参の酒をお燗して飲んで、少し間《ま》をもたせて、それから、もう六本ばかりと言つたはうがよい。今夜は、この本州の北端の宿で、一つ飲み明かさうぢやないか。」と、へんな策略を案出したのが失敗の基であつた。
 私たちは、水筒のお酒をお銚子に移して、こんどは出来るだけゆつくり飲んだ。そのうちにN君は、急に酔つて来た。
「こりやいかん。今夜は僕は酔ふかも知れない。」酔ふかも知れないぢやない。既にひどく酔つてしまつた様子である。「こりや、いかん。今夜は、僕は酔ふぞ。いいか。酔つてもいいか。」
「かまはないとも。僕も今夜は酔ふつもりだ。ま、ゆつくりやらう。」
「歌を一つやらかさうか。僕の歌は、君、聞いた事が無いだらう。めつたにやらないんだ。でも、今夜は一つ歌ひたい。ね、君、歌つてもいいたらう。」
「仕方がない。拝聴しよう。」私は覚悟をきめた。
 いくう、山河あ、と、れいの牧水の旅の歌を、N君は眼をつぶつて低く吟じはじめた。想像してゐたほどは、ひどくない。黙つて聞いてゐると、身にしみるものがあつた。
「どう? へんかね。」
「いや、ちよつと、ほろりとした。」
「それぢや、もう一つ。」
 こんどは、ひどかつた。彼も本州の北端の宿へ来て、気宇が広大になつたのか、仰天するほどのおそろしい蛮声を張り上げた。
 とうかいのう、小島のう、磯のう、と、啄木の歌をはじめたのだが、その声の荒々しく大きい事、外の風の音も、彼の声のために打消されてしまつたほどであつた。
「ひどいなあ。」と言つたら、
「ひどいか。それぢや、やり直し。」大きく深呼吸を一つして、さらに蛮声を張り上げるのである。東海の磯の小島、と間違つて歌つたり、また、どういふわけか突如として、今もまた昔を書けば増鏡、なんて増鏡の歌が出たり、呻くが如く、喚くが如く、おら
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