も、なつてやしない。点景人物の存在もゆるさない。強ひて、点景人物を置かうとすれば、白いアツシを着たアイヌの老人でも借りて来なければならない。むらさきのジヤンパーを着たにやけ男などは、一も二も無くはねかへされてしまふ。絵にも歌にもなりやしない。ただ岩石と、水である。ゴンチヤロフであつたか、大洋を航海して時化《しけ》に遭つた時、老練の船長が、「まあちよつと甲板に出てごらんなさい。この大きい波を何と形容したらいいのでせう。あなたがた文学者は、きつとこの波に対して、素晴らしい形容詞を与へて下さるに違ひない。」ゴンチヤロフは、波を見つめてやがて、溜息をつき、ただ一言、「おそろしい。」
 大洋の激浪や、砂漠の暴風に対しては、どんな文学的な形容詞も思ひ浮ばないのと同様に、この本州の路のきはまるところの岩石や水も、ただ、おそろしいばかりで、私はそれらから眼をそらして、ただ自分の足もとばかり見て歩いた。もう三十分くらゐで竜飛に着くといふ頃に、私は幽かに笑ひ、
「こりやどうも、やつぱりお酒を残して置いたはうがよかつたね。竜飛の宿に、お酒があるとは思へないし、どうもかう寒くてはね。」と思ばず愚痴をこぼした。
「いや、僕もいまその事を考へてゐたんだ。も少し行くと、僕の昔の知合ひの家があるんだが、ひよつとするとそこに配給のお酒があるかも知れない。そこは、お酒を飲まない家なんだ。」
「当つてみてくれ。」
「うん、やつぱり酒が無くちやいけない。」
 竜飛の一つ手前の部落に、その知合ひの家があつた。N君は帽子を脱いでその家へはひり、しばらくして、笑ひを噛み殺してゐるやうな顔をして出て来て、
「悪運つよし。水筒に一ぱいつめてもらつて来た。五合以上はある。」
「燠《おき》が残つてゐたわけだ。行かう。」
 もう少しだ。私たちは腰を曲げて烈風に抗し、小走りに走るやうにして竜飛に向つて突進した。路がいよいよ狭くなつたと思つてゐるうちに、不意に、鶏小舎に頭を突込んだ。一瞬、私は何が何やら、わけがわからなかつた。
「竜飛だ。」とN君が、変つた調子で言つた。
「ここが?」落ちついて見廻すと、鶏小舎と感じたのが、すなはち竜飛の部落なのである。兇暴の風雨に対して、小さい家々が、ひしとひとかたまりになつて互ひに庇護し合つて立つてゐるのである。ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばか
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