しゃるから、そんなに苦しくおなりになるのよ。人間|到《いた》るところに青山《せいざん》があるとか書生さんたちがよく歌っているじゃありませんか。いちど、あたしと一緒に漢陽の家へいらっしゃい。生きているのも、いい事だと、きっとお思いになりますから。」
「漢陽は、遠いなあ。」いずれが誘うともなく二人ならんで廟《びょう》の廊下から出て月下の湖畔を逍遥《しょうよう》しながら、「父母|在《いま》せば遠く遊ばず、遊ぶに必ず方有り、というからねえ。」魚容は、もっともらしい顔をして、れいの如くその学徳の片鱗《へんりん》を示した。
「何をおっしゃるの。あなたには、お父さんもお母さんも無いくせに。」
「なんだ、知っているのか。しかし、故郷には父母同様の親戚の者たちが多勢いる。乃公は何とかして、あの人たちに、乃公の立派に出世した姿をいちど見せてやりたい。あの人たちは昔から乃公をまるで阿呆か何かみたいに思っているのだ。そうだ、漢陽へ行くよりは、これからお前と一緒に故郷に帰り、お前のその綺麗《きれい》な顔をみんなに見せて、おどろかしてやりたい。ね、そうしようよ。乃公は、故郷の親戚の者たちの前で、いちど、思いきり、大いに威張ってみたいのだ。故郷の者たちに尊敬されるという事は、人間の最高の幸福で、また終極の勝利だ。」
「どうしてそんなに故郷の人たちの思惑ばかり気にするのでしょう。むやみに故郷の人たちの尊敬を得たくて努めている人を、郷原《きょうげん》というんじゃなかったかしら。郷原は徳の賊なりと論語に書いてあったわね。」
 魚容は、ぎゃふんとまいって、やぶれかぶれになり、
「よし、行こう。漢陽に行こう。連れて行ってくれ。逝者《ゆくもの》は斯《かく》の如き夫《かな》、昼夜を舎《す》てず。」てれ隠しに、甚《はなは》だ唐突な詩句を誦《しょう》して、あははは、と自らを嘲《あざけ》った。
「まいりますか。」竹青はいそいそして、「ああ、うれしい。漢陽の家では、あなたをお迎えしようとして、ちゃんと仕度がしてあります。ちょっと、眼をつぶって。」
 魚容は言われるままに眼を軽くつぶると、はたはたと翼の音がして、それから何か自分の肩に薄い衣のようなものがかかったと思うと、すっとからだが軽くなり、眼をひらいたら、すでに二人は雌雄の烏、月光を受けて漆黒《しっこく》の翼は美しく輝き、ちょんちょん平沙を歩いて、唖々と二羽、声をそろえて叫んで、ぱっと飛び立つ。
 月下白光三千里の長江《ちょうこう》、洋々と東北方に流れて、魚容は酔えるが如く、流れにしたがっておよそ二ときばかり飛翔して、ようよう夜も明けはなれて遥《はる》か前方に水の都、漢陽の家々の甍《いらか》が朝靄《あさもや》の底に静かに沈んで眠っているのが見えて来た。近づくにつれて、晴川《せいせん》歴々たり漢陽の樹、芳草|萋々《せいせい》たり鸚鵡《おうむ》の洲、対岸には黄鶴楼の聳《そび》えるあり、長江をへだてて晴川閣と何事か昔を語り合い、帆影点々といそがしげに江上を往来し、更にすすめば大別山《だいべつざん》の高峰眼下にあり、麓《ふもと》には水漫々の月湖ひろがり、更に北方には漢水|蜿蜒《えんえん》と天際に流れ、東洋のヴェニス一|眸《ぼう》の中に収り、「わが郷関《きょうかん》何《いず》れの処ぞ是《これ》なる、煙波江上、人をして愁えしむ」と魚容は、うっとり呟いた時、竹青は振りかえって、
「さあ、もう家へまいりました。」と漢水の小さな孤洲の上で悠然と輪を描きながら言った。魚容も真似して大きく輪を描いて飛びながら、脚下の孤洲を見ると、緑楊《りょくよう》水にひたり若草|烟《けむ》るが如き一隅にお人形の住家みたいな可憐な美しい楼舎があって、いましもその家の中から召使いらしき者五、六人、走り出て空を仰ぎ、手を振って魚容たちを歓迎している様が豆人形のように小さく見えた。竹青は眼で魚容に合図して、翼をすぼめ、一直線にその家めがけて降りて行き、魚容もおくれじと後を追い、二羽、その洲の青草原に降り立ったとたんに、二人は貴公子と麗人、にっこり笑い合って寄り添い、迎えの者に囲まれながらその美しい楼舎にはいった。
 竹青に手をひかれて奥の部屋へ行くと、その部屋は暗く、卓上の銀燭《ぎんしょく》は青烟《せいえん》を吐《は》き、垂幕《すいばく》の金糸銀糸は鈍く光って、寝台には赤い小さな机が置かれ、その上に美酒|佳肴《かこう》がならべられて、数刻前から客を待ち顔である。
「まだ、夜が明けぬのか。」魚容は間《ま》の抜けた質問を発した。
「あら、いやだわ。」と竹青は少し顔をあからめて、「暗いほうが、恥かしくなくていいと思って。」と小声で言った。
「君子の道は闇然《あんぜん》たり、か。」魚容は苦笑して、つまらぬ洒落《しゃれ》を言い、「しかし、隠《いん》に素《むか》いて怪を行う、という
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