居ること不能ゆえ、海へ散歩にいって来ます。承知とならば、玄関の電燈ともして置いて下さい。」

 家人は、薬品に嫉妬《しっと》していた。家人の実感に聞けば、二十年くらいまえに愛撫されたことございます、と疑わず断定できるほどのものであった。とき折その可能を、ふと眼前に、千里|韋駄天《いだてん》、万里の飛翔《ひしょう》、一瞬、あまりにもわが身にちかく、ひたと寄りそわれて仰天、不吉な程に大きな黒アゲハ、もしくは、なまあたたかき毛もの蝙蝠《こうもり》、つい鼻の先、ひらひら舞い狂い、かれ顔面蒼白、わなわなふるえて、はては失神せんばかりの烈しき歔欷《きょき》。婆さん、しだいに慾が出て来て、あの薬さえなければ、とつくづく思い、一夜、あるじへ、わが下ごころ看破されぬようしみじみ相談持ち掛けたところ、あるじ、はね起きて、病床端坐、知らぬは彼のみ、太宰ならばこの辺で、襟《えり》掻《か》きなおして両眼とじ、おもむろに津軽なまり発したいところさ、など無礼の雑言、かの虚栄の巷《ちまた》の数百の喫茶店、酒の店、おでん支那そば、下っては、やきとり、うなぎの頭、焼《しょう》ちゅう、泡盛《あわもり》、どこかで誰か一人は必ず笑って居る。これは十目の見るところ、百聞、万犬《ばんけん》の実《じつ》、その夜も、かれは、きゅっと口一文字かたく結んで、腕組みのまま長考一番《ちょうこういちばん》、やおら御異見開陳、言われるには、――おまえは、楯《たて》に両面あることを忘れてはいけません。金と銀と、二面あります。おまえは、この楯、ゴオルデンよ、と嘘の英語つかいながらも、おまえの見たままの実相あやまたず表現し得た。薬品の害については、おまえよりも私のほうが、よく知って居ります。けれども、おまえは、その楯に、もう一面のあることを、知って置かなければなりません。その楯は、金であるし銀でもある。また、同様に、金でもなければ銀でもない。金と銀と、両面の楯であって、おまえは、楯の片面の金色を、どんなに強く主張してもいいわけだ。けれども、その主張の裏に銀の面の存在をもちゃんと認めて、そのうえの主張でなければならない。狡猾《こうかつ》の駈け引きの如くに思われるだろうが、かまわないのだ、それが正しいのだ。決して嘘いつわりの主張でもなければ、ごまかしの態度でもない。世の中、それでいいのだ。このような客観的の認識、自問自答の気の弱りの体験者をこそ、真に教養されたと言うてよいのだ。異国語の会話は、横浜の車夫、帝国ホテルの給仕人、船員、火夫に、――おい! 聞いて居るのか。はい、わたくし、急にあらたまるあなたの口調おかしくて、ふとんかぶってこらえてばかりいました。ああ、くるしい。家人のつつましい焔《ほのお》、清潔の満潮、さっと涼しく引いた様子で、私も内心ほっとしていた。それは残念でしたねえ、もういちど繰り返して教えてもいいんだが、――。家人、右の手のひらをひくい鼻の先に立てて片手拝みして、もうわかった。いつも同じ教材ゆえ、たいてい諳誦《あんしょう》して居ります。お酒を呑めば血が出るし、この薬でもなかった日には、ぼくは、とうの昔に自殺している。でしょう? 私、答えて、うむ、わが論つたなくとも楯半面の真理。

 このように巧い結末を告げるときもあれば、また、――おれが、どのように恥かしくて、この押入れの前に呆然《ぼうぜん》たちつくして居るか、穴あればはいりたき実感いまより一そう強烈の事態にたちいたらば、のこのこ押入れにはいろう魂胆《こんたん》、そんなばかげた、いや、いや、それもある、けれども、その他にも何か、うむ、押入れには、おまえに見せたくない手紙か何かある故、そんな秘めたるいいことあるくらいなら、おれは、何を好んでこの狭小の家に日がな一日、ごろごろしていようぞ、そんなことじゃないのだ。おれはいま、眼のさきまっくろになって、しいんと地獄へ落ちてゆく身の上になってしまったのだ。おのれの意志では、みじんも動けぬ。うふふ、死骸じゃよ。底のない墜落、無間奈落《むけんならく》を知って居るか、加速度、加速度、流星と同じくらいのはやさで、落下しながらも、少年は背丈《せたけ》のび、暗黒の洞穴、どんどん落下しながら手さぐりの恋をして、落下の中途にて分娩、母乳、病い、老衰、いまわのきわの命、いっさい落下、死亡、不思議やかなしみの嗚咽《おえつ》、かすかに、いちどあれは鴎《かもめ》の声か。落下、落下、死体は腐敗、蛆虫《うじむし》も共に落下、骨、風化されて無、風のみ、雲のみ、落下、落下――。など、多少、いやしく調子づいたおしゃべりはじめて、千里の馬、とどまるところなき言葉の洪水、性来、富者万燈の御祭礼好む軽薄の者、とし甲斐《がい》もなく、夕食の茶碗、塗箸もて叩いて、われとわが饒舌に、ま、狸《たぬき》ばやしとでも言おうか、えたい知れぬ
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