た。校歌などというものも、いちども覚えようとした事がありません。
 自分は、やがて画塾で、或る画学生から、酒と煙草と淫売婦《いんばいふ》と質屋と左翼思想とを知らされました。妙な取合せでしたが、しかし、それは事実でした。
 その画学生は、堀木正雄といって、東京の下町に生れ、自分より六つ年長者で、私立の美術学校を卒業して、家にアトリエが無いので、この画塾に通い、洋画の勉強をつづけているのだそうです。
「五円、貸してくれないか」
 お互いただ顔を見知っているだけで、それまで一言も話合った事が無かったのです。自分は、へどもどして五円差し出しました。
「よし、飲もう。おれが、お前におごるんだ。よかチゴじゃのう」
 自分は拒否し切れず、その画塾の近くの、蓬莱《ほうらい》町のカフエに引っぱって行かれたのが、彼との交友のはじまりでした。
「前から、お前に眼をつけていたんだ。それそれ、そのはにかむような微笑、それが見込みのある芸術家特有の表情なんだ。お近づきのしるしに、乾杯! キヌさん、こいつは美男子だろう? 惚れちゃいけないぜ。こいつが塾へ来たおかげで、残念ながらおれは、第二番の美男子という事になった
前へ 次へ
全153ページ中42ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング