く無いのだという事を、ばからしいけど、念のために言い添えて置きたい。それはこの手記のおしまいまでお読みになったら、たいていの読者には自明の事で、こんな断り書きは興覚めに違いないのであるが、ちかごろ甚だ頭の悪い、無感覚の者が、しきりに何やら古くさい事を言って騒ぎ立て、とんでもない結論を投げてよこしたりするので、その頭の古くて悪い(いや、かえって利口なのかも知れないが)その人たちのために一言、言わでもの説明を附け加えさせていただく次第なのだ。どだい、この手記にあらわれる彼は、百姓のような姿をしているけれども、決してあの「イデオロギスト」たちの敬愛の的たる農夫では無い。彼は実に複雑な男であった。とにかく私は、あんな男は、はじめて見た。不可解といってもいいくらいであった。私はそこに、人間の新しいタイプをさえ予感した。善い悪いという道徳的な審判を私はそれに対して試みようとしているのでなく、そのような新しいタイプの予感を、読者に提供し得たならば、それで私は満足なのである)
 彼は私と小学校時代の同級生であったところの平田だという。
「忘れたか」と言って、白い歯を出して笑っている。その顔には、幽《かす》かに見覚えがあった。
「知っている。あがらないか」私はその日、彼に対してたしかに軽薄な社交家であった。
 彼は、藁草履《わらぞうり》を脱いで、常居にあがった。
「久しぶりだなあ」と彼は大声で言う。「何年振りだ? いや、何十年振りだ? おい、二十何年振りだよ。お前がこっちに来ているという事は、前から聞いていたが、なかなか俺も畑仕事がいそがしくてな、遊びに来れないでいたのだよ。お前もなかなかの酒飲みになったそうじゃないか。うわっはっはっは」
 私は苦笑し、お茶を注いで出した。
「お前は俺と喧嘩した事を忘れたか? しょっちゅう喧嘩をしたものだ」
「そうだったかな」
「そうだったかなじゃない。これ見ろ、この手の甲に傷がある。これはお前にひっかかれた傷だ」
 私はその差し伸べられた手の甲を熟視したが、それらしい傷跡はどこにも無かった。
「お前の左の向う脛《ずね》にも、たしかに傷がある筈だ。あるだろう? たしかにある筈だよ。それは俺がお前に石をぶっつけた時の傷だ。いや、よくお前とは喧嘩をしたものだ」
 しかし、私の左の向う脛にも、また、右の向う脛にも、そんな傷は一つも無いのである。私はただあい
前へ 次へ
全16ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング