とうにこれは、君の三思三省すべきところだ。」私も、そう思いました。
(中略)
私は先生にお願いします。
私が慚愧《ざんき》している事を信じて下さい。私は悪い男ではありません。
(中略)
私はいまペンを置いて「その火絶やすな」という歌を、この学校に一つしかない小さいオルガンで歌いたいと思います。敬具――
ところどころ私が勝手に省略したけれど、以上が、その国民学校訓導の手紙の内容である。うれしかった。こんどは私のほうから、お礼状を書いた。入営なさるも、せぬも、一日一日の義務に努力していて下さい、とも書き添えた。
本当にもう、このごろは、一日の義務は、そのまま生涯の義務だと思って厳粛に努めなければならぬ。ごまかしては、いけないのだ。好きな人には、一刻も早くいつわらぬ思いを飾らず打ちあけて置くがよい。きたない打算は、やめるがよい。率直な行動には、悔いが無い。あとは天意におまかせするばかりなのだ。
つい先日も私は、叔母から長い手紙をもらって、それに対して、次のような返事を出した。その文面は、そのまんま或る新聞の文芸欄に発表せられた。
――叔母さん。けさほどは、長いお手紙をいただきました。私の健康状態やら、また、将来の暮しに就いて、いろいろ御心配して下さってありがとうございます。けれども、私はこのごろ、私の将来の生活に就いて、少しも計画しなくなりました。虚無ではありません。あきらめでも、ありません。へたな見透《みとお》しなどをつけて、右すべきか左すべきか、秤《はかり》にかけて慎重に調べていたんでは、かえって悲惨な躓《つまず》きをするでしょう。
明日の事を思うな、とあの人も言って居られます。朝めざめて、きょう一日を、十分に生きる事、それだけを私はこのごろ心掛けて居ります。私は、嘘を言わなくなりました。虚栄や打算で無い勉強が、少しずつ出来るようになりました。明日をたのんで、その場をごまかして置くような事も今は、なくなりました。一日一日だけが、とても大切になりました。
決して虚無では、ありません。いまの私にとって、一日一日の努力が、全生涯の努力であります。戦地の人々も、おそらくは同じ気持ちだと思います。叔母さんも、これからは買《か》い溜《だめ》などは、およしなさい。疑って失敗する事ほど醜い生きかたは、ありません。私たちは、信じているのです。一寸の虫にも五分の赤心がありました。苦笑なさっては、いけません。無邪気に信じている者だけが、のんきであります。私は文学を、やめません。私は信じて成功するのです。御安心下さい。
このごろ私は、毎朝かならず鬚《ひげ》を剃《そ》る。歯も綺麗に磨く。足の爪も、手の爪も、ちゃんと切っている。毎日、風呂へはいって、髪を洗い、耳の中も、よく掃除して置く。鼻毛なんかは、一分も伸ばさぬ。眼の少し疲れた時には、眼薬を一滴、眼の中に落して、潤いを持たせる。
純白のさらし木綿を一反、腹から胸にかけてきりりと巻いている。いつでも、純白である。パンツも純白のキャラコである。之《これ》も、いつでも純白である。そうして夜は、ひとり、純白のシイツに眠る。
書斎には、いつでも季節の花が、活き活きと咲いている。けさは水仙を床の間の壺に投げ入れた。ああ、日本は、佳い国だ。パンが無くなっても、酒が足りなくなっても、花だけは、花だけは、どこの花屋さんの店頭を見ても、いっぱい、いっぱい、紅《あか》、黄、白、紫の色を競い咲き驕《おご》っているではないか。この美事さを、日本よ、世界に誇れ!
私はこのごろ、破れたドテラなんか着ていない。朝起きた時から、よごれの無い、縞目のあざやかな着物を着て、きっちり角帯をしめている。ちょっと近所の友人の家を訪れる時にも、かならず第一の正装をするのだ。ふところには、洗ったばかりのハンケチが、きちんと四つに畳まれてはいっている。
私は、このごろ、どうしてだか、紋服を着て歩きたくて仕様がない。
けさ、花を買って帰る途中、三鷹駅前の広場に、古風な馬車が客を待っているのを見た。明治、鹿鳴館《ろくめいかん》のにおいがあった。私は、あまりの懐しさに、馭者《ぎょしゃ》に尋ねた。
「この馬車は、どこへ行くのですか。」
「さあ、どこへでも。」老いた馭者は、あいそよく答えた。「タキシイだよ。」
「銀座へ行ってくれますか。」
「銀座は遠いよ。」笑い出した。「電車で行けよ。」
私は此の馬車に乗って銀座八丁を練りあるいてみたかったのだ。鶴の丸(私の家の紋は、鶴の丸だ)の紋服を着て、仙台平《せんだいひら》の袴《はかま》をはいて、白足袋、そんな姿でこの馬車にゆったり乗って銀座八丁を練りあるきたい。ああ、このごろ私は毎日、新郎《はなむこ》の心で生きている。
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┌昭和十六年十二月八日之を記せり。 ┐
└この朝、英米と戦端ひらくの報を聞けり。┘
(「新潮」昭和十七年一月号)
[#ここで字上げ終わり]
底本:「ろまん燈籠」新潮文庫、新潮社
1983(昭和58)年2月25日発行
1986(昭和61)年10月30日5刷
初出:「新潮」
1942(昭和17)年1月号
※2行にわたる丸括弧を、罫線で代用しました。
入力:土屋隆
校正:鈴木厚司
2005年12月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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