もお辞儀をした。苦心さんたんして持って来たんだぜ。久し振りだろう。牛の肉だ。」私は無邪気に誇った。
「くすりか何かのような気がして、」家の者は、おずおずと箸《はし》をつけた。「ちっとも食欲が起らないわ。」
「まあ、食べてみなさい。おいしいだろう? みんな食べなさい。僕は、たくさん食べて来たのだ。」
「お顔にかかわりますよ。」家の者は、意外な事を小声で言った。「私はそんなに食べたくもないのですから、女中さんに頭をさげたりなど、これからは、なさらないで下さい。」
そう言われて私は、ちょっと具合がわるかったけれど、でも、安心の思いのほうが大きかった。たいへん安心したのである。大丈夫だ。もう家《うち》の食べものなど、全く心配しない事にしよう。「牛の肉だぞ」なんて、卑猥《ひわい》じゃないか。食べものに限らず、家の者の将来に就いても、全く安心していよう。これは、子供と一緒にかならず丈夫に育つ。ありがたいと思った。
家の者達に就いては、いまは少しも心配していないので、毎日、私は気軽である。青空を眺めて楽しみ、煙草を吸い、それから努めて世の中の人たちにも優しくしている。
三鷹の私の家には、大学生がたくさん遊びに来る。頭のいいのもあれば、頭のわるいのもある。けれども一様に正義派である。いまだかつて私に、金を貸せ、などと云った学生は一人も無い。かえって私に、金を貸そうとする素振りさえ見せる学生もある。一つの打算も無く、ただ私と談じ合いたいばかりに、遊びに来るのだ。私は未《ま》だいちども、此《こ》の年少の友人たちに対して、面会を拒絶した事が無い。どんなに仕事のいそがしい時でも、あがりたまえ、と言う。けれども、いままでの「あがりたまえ」は、多分に消極的な「あがりたまえ」であったという事も、否定できない。つまり、気の弱さから、仕方なく「あがりたまえ。僕の仕事なんか、どうだっていいさ。」と淋しく笑って言っていた事も、たしかにあったのである。私の仕事は、訪問客を断乎《だんこ》として追い返し得るほどの立派なものではない。その訪問客の苦悩と、私の苦悩と、どっちが深いか、それはわからぬ。私のほうが、まだしも楽なのかも知れない。「なんだい、あれは。趣味でキリストごっこ[#「ごっこ」に傍点]なんかに、ふけっていやがって、鼻持ちならない深刻ぶった臭い言葉ばかり並べて、そうして本当は、ただちょっと気取ったエゴイストじゃないか。」などと言われる事の恥ずかしさに、私は、どんなに切迫した自分の仕事があっても、立って学生たちを迎えるような傾向が無いわけでもなかったらしい。そんなに誠意のあるウエルカムではなかったようだ。卑劣な自己防衛である。なんの責任感も無かった。学生たちを怒らせなければ、それでよかった。私は学生たちの話を聞きながら、他の事ばかり考えていた。あたりさわりの無い短い返辞をして、あいまいに笑っていた。私の立場ばかりを計算していたのである。学生たちは私を、はにかみの深い、おひとよしだと思っていたかも知れない。けれども、このごろは、めっきり私も優しくなって、思う事をそのままきびしく言うようになってしまった。普通の優しさとは少し違うのである。私の優しさは、私の全貌《ぜんぼう》を加減せずに学生たちに見せてやる事なのだ。私は、いまは責任を感じている。私のところへ来る人を、ひとりでも堕落させてはならぬと念じている。私が最後の審判の台に立たされた時、たった一つ、「けれども私は、私と附き合った人をひとりも堕落させませんでした。」と言い切る事が出来たら、どんなに嬉しいだろう。私はこのごろ学生たちには、思い切り苦言を呈する事にしている。呶鳴《どな》る事もある。それが私の優しさなのだ。そんな時には私は、この学生に殺されたっていいと思っている。殺す学生は永遠の馬鹿である。
――はなはだ、僕は、失礼なのだが、用談は、三十分くらいにして、くれないか。今月、すこし、まじめな仕事があるのだ。ゆるせ。太宰治。――
玄関の障子に、そんな貼紙《はりがみ》をした事もある。いい加減なごまかしの親切で逢ってやるのは、悪い事だと思ったからだ。自分の仕事も、だいじにしたいと思いはじめて来たからだ。自分のために。学生たちのために。一日の生活は、大事だ。
学生たちは、だんだん私の家へ来なくなった。そのほうがよいと思っている。学生たちは、私から離れて、まじめに努力しているだろう。
一日一日の時間が惜しい。私はきょう一日を、出来るだけたっぷり生きたい。私は学生たちばかりでなく、世の中の人たち皆に、精一ぱいの正直さで附き合いはじめた。
往復葉書で、こんな便りが来た。
――女の決闘、駈込み訴え。結局、先生の作品は変った小説だとしか私には消化出来ない。何か先生より啓示を得たいと思う。一つ御説明を願いたい。端的
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