憶にないのが当りまえさ。けれど、どうだい、はじめて逢った兄なるものは、あんな安宿でごろごろしていて、風采《ふうさい》もぱっとせず、さびしくないか。」
「いいえ。」はっきり否定したが、どこか気まずそうに見えた。さびしいのだ。こういう人が在ると知ったら、私は、せめて中学校の先生くらいにはなっていたのにと、くやしく思った。
「さっきの郵便屋さんは、君のお友達かね。」私は、話題を転じた。
「そうです。」幸吉さんは、ぱっと明るい顔になって、「親友です。萩野君と言います。いい人ですよ。あの人は、こんどは手柄をたてました。まえから僕が、あの人に、あなたのことを言ってあかして居りましたので、あの人も、あなたのお名前を知ってしまって、そうして、たびたび、あなたのところへ郵便配達しているうちに、ふと、このひとじゃないかと思ったのだそうです。五、六日まえ、僕のところへ来て、そんなことを言いますから、僕もわくわくして、どんな人か、と聞きましたら、ただ宿へ郵便を投げこむだけなのだから、顔は見たことがない、と言います。それなら、こんどは様子を、それとなく内偵してみてくれ、もし人ちがいだと、醜態だから、と妹まで一緒になって、大騒ぎでした。」
「妹さんも、あるのですか。」私のよろこびは、いよいよ高い。
「ええ、私と四つちがうのですから、二十一です。」
「すると、君は、」私は、急に頬がほてって来たので、あわてて別なことを言った。「二十五ですね。私とは、六つちがうわけだ。どこかへ、おつとめですか。」
「そこのデパアトです。」
 眼をあげると、大丸《だいまる》デパアトの五階建の窓窓がきらきら華やかに灯っている。もう、この辺は、桜町である。甲府で一ばん賑《にぎ》やかな通りで、土地の人は、甲府銀座と呼んでいる。東京の道玄坂を小綺麗《こぎれい》に整頓《せいとん》したような街である。路《みち》の両側をぞろぞろ流れて通る人たちも、のんきそうで、そうして、どこかハイカラである。植木の露店には、もう躑躅《つつじ》が出ている。
 デパアトに沿って右に曲折すると、柳町である。ここは、ひっそりしている。けれども両側の家家は、すべて黒ずんだ老舗《しにせ》である。甲府では、最も品格の高い街であろう。
「デパアトは、いまいそがしいでしょう。景気がいいのだそうですね。」
「とても、たいへんです。こないだも、一日仕入が早かったばかり
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