がするほど永く湯槽《ゆぶね》にひたって、よろめいて出て、世の中にお湯銭くらい安いものはない、今夜あそびに出掛けたら、どうしたって一両失う、お湯に酔うのも茶屋酒に酔うのも結局は同じ事さ、とわけのわからぬ負け惜しみの屁理窟《へりくつ》をつけて痩我慢《やせがまん》の胸をさすり、家へ帰って一合の晩酌《ばんしゃく》を女房の顔を見ないようにしてうつむいて飲み、どうにも面白《おもしろ》くないので、やけくそに大めしをくらって、ごろりと寝ころび、出入りの植木屋の太吉爺《たきちじい》を呼んで、美作の国の七不思議を語らせ、それはもう五十ぺんも聞いているので、腕まくらしてきょろきょろと天井板を眺めて別の事を考え、不意に思いついたように小間使いを呼んで足をもませ、女房の顔を見ると、むらむらっとして来て、おい、茶を持って来い、とつっけんどんに言いつけ、女房に茶碗《ちゃわん》をささげ持たせたまま、自分はやはり寝ながら頭を少しもたげ、手も出さずにごくごく飲んで、熱い、とこごとを言い、八つ当りしても、大将が夜遊びさえしなければ家の中は丸くおさまり、隠居はくすくす笑いながら宵《よい》から楽寝、召使いの者たちも、将軍内にいらっしゃるとて緊張して、ちょっと叔母のところへと怪しい外出をする丁稚《でっち》もなく、裏の井戸端《いどばた》で誰を待つやらうろうろする女中もない。番頭は帳場で神妙を装い、やたらに大福帳をめくって意味も無く算盤《そろばん》をぱちぱちやって、はじめは出鱈目《でたらめ》でも、そのうちに少しの不審を見つけ、本気になって勘定をし直し、長松は傍《そば》に行儀よく坐《すわ》ってあくびを噛《か》み殺しながら反古紙《ほごがみ》の皺をのばし、手習帳をつくって、どうにも眠くてかなわなくなれば、急ぎ読本《とくほん》を取出し、奥に聞えよがしの大声で、徳は孤ならず必ず隣あり、と読み上げ、下男の九助は、破れた菰《こも》をほどいて銭差《ぜにさし》を綯《な》えば、下女のお竹は、いまのうちに朝のおみおつけの実でも、と重い尻《しり》をよいしょとあげ、穴倉へはいって青菜を捜し、お針のお六は行燈《あんどん》の陰で背中を丸くしてほどきものに余念がなさそうな振りをしていて、猫《ねこ》さえ油断なく眼を光らせ、台所にかたりと幽《かす》かな音がしても、にゃあと鳴き、いよいよ財産は殖えるばかりで、この家安泰無事長久の有様ではあったが、若大将ひとり怏々《おうおう》として楽しまず、女房の毎夜の寝物語は味噌漬《みそづけ》がどうしたの塩鮭《しおざけ》の骨がどうしたのと呆《あき》れるほど興覚めな事だけで、せっかくお金が唸《うな》るほどありながら悋気の女房をもらったばかりに眼まいするほど長湯して、そうして味噌漬の話や塩鮭の話を拝聴していなければならぬ、おのれ、いまに隠居が死んだら、とけしからぬ事を考え、うわべは何気なさそうに立ち働き、内心ひそかによろしき時機をねらっていた。やがて隠居夫婦も寄る年波、紙小縒の羽織紐がまだ六本引出しの中に残ってあると言い遺《のこ》して老父まず往生すれば、老母はその引出しに羽織紐が四本しか無いのを気に病み、これも程なく後を追い、もはやこの家に気兼ねの者は無く、名実共に若大将の天下、まず悋気の女房を連れて伊勢参宮、ついでに京大阪を廻り、都のしゃれた風俗を見せ、野暮な女房を持ったばかりに亭主は人殺しをして牢《ろう》へはいるという筋の芝居を見せて、女房の悋気のつつしむべき所以《ゆえん》を無言の裡《うち》に教訓し、都のはやりの派手な着物や帯をどっさり買ってやったら女房は、女心のあさましく、国へ帰ってからも都の人に負けじと美しく装い茶の湯、活花《いけばな》など神妙らしく稽古《けいこ》して、寝物語に米味噌の事を言い出すのは野暮とたしなみ、肥桶をかついで茶屋遊びする人は無いものだという事もわかり、殊《こと》にも悋気はあさましいものと深く恥じ、
「あたしだって、悋気をいい事だとは思っていなかったのですけれど、お父さんやお母さんがお喜びになるので、ついあんな大声を挙げてわるかったわね。」と言葉までさばけた口調になって、「浮気は男の働きと言いますものねえ。」
「そうとも、そうとも。」男はここぞと強く相槌《あいづち》を打ち、「それについて、」ともっともらしい顔つきになり、「このごろ、どうも、養父養母が続いて死に、わしも、何だか心細くて、からだ工合いが変になった。俗に三十は男の厄年《やくどし》というからね、」そんな厄年は無い。「ひとつ、上方《かみがた》へのぼって、ゆっくり気保養でもして来ようと思うよ。」とんでもない「それについて」である。
「あいあい、」と女房は春風駘蕩《しゅんぷうたいとう》たる面持《おももち》で、「一年でも二年でも、ゆっくり御養生しておいでなさい。まだお若いのですものねえ。いまから分別顔し
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