《せんとう》に女ふたり長刀《なぎなた》を持ち、百右衛門の屋敷に駈け込み、奥の座敷でお妾《めかけ》を相手に酒を飲んでいる百右衛門の痩せた右腕を武蔵まず切り落し、百右衛門すこしもひるまず左手で抜き合わすを鞠は踏み込んで両足を払えば百右衛門|立膝《たてひざ》になってもさらに弱るところなく、八重をめがけて烈《はげ》しく切りつけ、武蔵ひやりとして左の肩に切り込めば、百右衛門たまらず仰向けに倒れたが、一向に死なず、蛇《へび》の如《ごと》く身をくねらせて手裏剣《しゅりけん》を鋭く八重に投げつけ、八重はひょいと身をかがめて危《あやう》く避けたが、そのあまりの執念深さに、思わず武蔵と顔を見合せたほどであった。
 めでたく首級を挙げて、八重、鞠の両人は父の眠っている鮭川の磯に急ぎ、武蔵はおのれの屋敷に引き上げて、このたびの刃傷の始中終《しちゅうじゅう》を事こまかに書き認《したた》め、殿の御許しも無く百右衛門を誅《ちゅう》した大罪を詫《わ》び、この責すべてわれに在りと書き結び、あしたすぐ殿へこの書状を差上げよと家来に言いつけ、何のためらうところも無く見事に割腹して相果てたとはなかなか小気味よき武士である。女二人は、金内の屍に百右衛門の首級を手向け、ねんごろに父の葬《とむら》いをすませて、私宅へ帰り、門を閉じて殿の御裁きを待ち受け、女ながらも白無垢《しろむく》の衣服に着かえて切腹の覚悟、城中に於いては重役打寄り評議の結果、百右衛門こそ世にめずらしき悪人、武蔵すでに自決の上は、この私闘おかまいなしと定め、殿もそのまま許認し、女ふたりは、天晴《あっぱ》れ父の仇《かたき》、主《しゅう》の仇を打ったけなげの者と、かえって殿のおほめにあずかり、八重には、重役の伊村作右衛門末子作之助の入縁仰せつけられて中堂の名跡《みょうせき》をつがせ、召使いの鞠事は、歩行目付《かちめつけ》の戸井市左衛門とて美男の若侍に嫁がせ、それより百日ほど過ぎて、北浦|春日明神《かすがみょうじん》の磯より深夜城中に注進あり、不思議の骨格が汀に打ち寄せられています、肉は腐って洗い去られ骨組だけでございますが、上半身はほとんど人間に近く、下半身は魚に違《たが》わず、いかにも無気味のものゆえ、取り敢《あ》えず御急報申しあげますとの事、さっそく奉行をつかわし検分させたところが、その奇態の骨の肩先にまぎれもなく、中堂金内の誉《ほま》れの矢の根、八重の家にはその名の如く春が重《かさな》ったという、此《この》段、信ずる力の勝利を説く。
[#地から2字上げ](武道伝来記、巻二の四、命とらるる人魚の海)
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   破産

 むかし美作《みまさか》の国に、蔵合《ぞうごう》という名の大長者があって、広い屋敷には立派な蔵《くら》が九つも立ち並び、蔵の中の金銀、夜な夜な呻《うめ》き出して四隣の国々にも隠れなく、美作の国の人たちは自分の金でも無いのに、蔵合のその大財産を自慢し、薄暗い居酒屋でわずかの濁酒《にごりざけ》に酔っては、
 蔵合さまには及びもないが、せめて成りたや万屋《よろずや》に、
 という卑屈の唄《うた》をあわれなふしで口ずさんで淋《さび》しそうに笑い合うのである。この唄に出て来る万屋というのは、美作の国で蔵合につづく大金持、当主一代のうちに溜《た》め込んだ金銀、何万両、何千貫とも見当つかず、しかも蔵合の如《ごと》く堂々たる城郭を構える事なく、近隣の左官屋、炭屋、紙屋の家と少しも変らず軒の低い古ぼけた住居で、あるじは毎朝早く家の前の道路を掃除して馬糞《ばふん》や紐《ひも》や板切れを拾い集めてむだには捨てず、世には何染《なにぞめ》、何縞《なにじま》がはやろうと着物は無地の手織木綿一つと定め、元日にも聟入《むこいり》の時に仕立てた麻袴《あさばかま》を五十年このかた着用して礼廻《れいまわ》りに歩き、夏にはふんどし一つの姿で浴衣《ゆかた》を大事そうに首に巻いて近所へもらい風呂《ぶろ》に出かけ、初生《はつなり》の茄子《なす》一つは二|文《もん》、二つは三文と近在の百姓が売りに来れば、初物《はつもの》食って七十五日の永生きと皆々三文出して二つ買うのを、あるじの分別はさすがに非凡で、二文を出して一つ買い、これを食べて七十五日の永生きを願って、あとの一文にて、茄子の出盛りを待ちもっと大きいのをたくさん買いましょうという抜け目のない算用、金銀は殖えるばかりで、まさに、それこそ「暗闇《くらやみ》に鬼」の如き根強き身代《しんだい》、きらいなものは酒色の二つ、「下戸《げこ》ならぬこそ」とか「色好まざらむ男は」とか書き残した法師を憎む事しきりにて、おのれ、いま生きていたら、訴訟をしても、ただは置かぬ、と十三歳の息子の読みかけの徒然草《つれづれぐさ》を取り上げてばりばり破り、捨てずに紙の皺《しわ》をのばして細長く切り、紙
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