ければいけないでしょうか。」
 ハム。「よせよ。自分から言い出して置きながら、いまになって、そんな卑怯《ひきょう》な逃げかたをするなんて。ウイッタンバーグじゃ、そんな呻《うめ》くような、きざな台詞《せりふ》が流行《はや》っているのかね?」
 ホレ。「そんなら申し上げます。そんなにホレーショーの誠実を侮辱なさるんだったら申し上げます。本当に、平気でお聞き流し願います。つまらない、とるにも足らぬ噂です。臣ホレーショーは、もとより、そんな不埒《ふらち》な噂は信じていません。」
 ハム。「どうだっていいよ、そんな事は。僕は不機嫌《ふきげん》になった。君もそんな固くるしい言いかたをするという事を、はじめて知ったよ。」
 ホレ。「申し上げます。その噂は、このごろエルシノア王城に幽霊が出るという、――」
 ハム。「それあまた、ひどい。ホレーショー、本気かね。僕は、笑っちゃったよ。ばかばかしい。ウイッタンバーグの大学も、落ちたねえ。あの独自の科学精神を、どこへやった。もっとも、このごろ大学では、劇の研究が盛んなそうだから、中でも頭の悪い馬鹿な研究生が、そんな下手なドラマを案出したのかも知れないね。それにしても、幽霊とは、なんて貧弱な想像力だ。それを面白がって、わやわや騒ぎ立てているとは、大学も、このごろは質《たち》が落ちたものさ。幽霊に、ハムレットの発狂。三文芝居にでもありそうな外題《げだい》だ。叔父さんは僕に、大学はつまらないから、よせと言ってくれたが、本当だ。叔父さんのほうが、よっぽど頭がいいや。そんなくだらない連中と交際して僕まで一緒になって幽霊騒ぎをするようになっては、叔父さんもこんどは心底から閉口だろう。も少し、気のきいた噂を立てないものかね。」
 ホレ。「僕は信じていないのです。けれども、母校の悪口はおっしゃらないで下さい。僕は、何だか不愉快です。」
 ハム。「しっけい。君は別だよ。叔父さんも、君の事だけは、ほめていたよ。誠実な男だと言っていた。わざわざ僕がウイッタンバーグまで行かずとも、ホレーショーひとりをこちらへ呼び寄せたならば、それでいいと言っていた。僕は本当は、大学へなど行きたくなかったんだけど、でも、君にだけは逢《あ》いたかった。」
 ホレ。「忠誠をお誓い致します。なお、言葉を返すようですが、ただいまの奇怪の噂は、決して我がウイッタンバーグ大学から出たものではありません。それだけは、母校の名誉のために申し上げて置きたいと思います。その噂は、このエルシノアの城下より起り、次第にデンマーク一国にひろがり、とうとう外国の大学にいる者どもの耳にまではいって来たものであります。いかにも無礼な、言語道断の噂なので、このごろはホレーショーも、気が鬱してなりません。ハムレットさまは、きょうまで、少しもご存じなかったのですか?」
 ハム。「知らんよ、そんな馬鹿げた事は。それにしても、ずいぶん広くひろがってしまったものらしいねえ。あんまり、ひろがると、馬鹿らしいと笑っても居られなくなるからね。叔父さんや、ポローニヤスたちは知っているのかしら。いったい、あの人たちは、どこに耳を持っているんだろう。聞えても、聞えぬふりをしているのかな? 腹黒いからなあ、あの人たちは。ホレーショー、いったい、それは、どんな幽霊なんだい? 少し気になって来た。」
 ホレ。「その前に、はっきり、お伺いして置きたい事があります。かまいませんか?」
 ハム。「ホレーショー、僕は君をこわくなって来たよ。早く言ってくれ。なんでもいいから早く言ってしまってくれ。あんまり、そんなに勿体ぶると、僕は君と絶交したくなりそうだ。」
 ホレ。「申し上げます。申し上げてしまったら、なんでも無い事なのかも知れません。きっと、また、あなたがひどくお笑いになって、それだけですむ事なのでしょう。何だか僕にも、そんな明るい気がして来ました。それでも、念のために一つお伺いして置きますが、ハムレットさま、あなたは、勿論、現王のお人がらを信じていらっしゃいますね?」
 ハム。「意外の質問だね。そいつは、ちょっと難問だ。こまるね。なんと言ったらいいのかなあ。むずかしいんだ。いいじゃないか、そんな事は。どうだって、いいじゃないか。」
 ホレ。「いいえ、いけません。この際それを、はっきり伺って置かないと、僕は何も申し上げる事が出来ません。」
 ハム。「手きびしいねえ。君は、変ったねえ。ばかに頑固《がんこ》になった。もとは、こんなじゃ無かったがねえ。まあ、いいや。御返事しましょう。なんだって今更、そんな事を僕に聞くんだね? 叔父さんは、だらしないところもあるけど、でも、そんなに悪いひとじゃないんだ。でも人がらを信じるかと聞かれると、僕も、ちょっと困るんだ。何か、叔父さんに就いて悪い噂《うわさ》でもあるのかね? それあ、いろいろ人は言うだろう。なんにしても、こんどは少し、まずかったからね。でも、あれは、もちろん叔父さんひとりできめた訳じゃ無いんだ。そんな事は出来るもんじゃない。ポローニヤスをはじめ、群臣の評定に依《よ》って取りきめられた事なんだ。僕だって今すぐ、位に即《つ》けるほどの男じゃない。いま、デンマークは、むずかしい時らしいからね。ノーウエーとも、いつ戦争が起るか、わかったものじゃない。僕には、まだ自信が無いんだ。叔父さんが位に即いてくれて、僕はかえって気楽になった。本当だよ。僕は、もう暫《しばら》く君たちと自由に冗談を言い合って遊んでいたいよ。なんでもないんだ。もともと、叔父と、甥《おい》の仲じゃないか。一ばん近い肉親だ。それあ僕は、叔父さんには何かと我がままを言うよ。いやがらせを言ってやる事もある。軽蔑《けいべつ》してやる事もある。わざとすねて、ろくに返事もしてやらない時だって、ずいぶんある。でも、それは叔父と甥の間の事だ。僕は、甘えているのかも知れない。でも、それくらいの事は、叔父さんだってわかってくれていると思うんだ。僕は、やっぱり叔父さんを、たよりにしているところもあるんだからね。いい叔父さんだよ。気が弱いんだ。政治の手腕だって、たいした事は無いだろうし、それに、何といったって、もとをただせば山羊のおじさんなんだからね、がっかりしちゃうよ。いろいろ努力しているようだけど、もともと、がらでないんだからね。気の毒なんだ。お父さんと呼べって言うんだけど、僕には出来ない。お母さんもまた、まずい事をしたものさ。ハムレット王家の基礎を固めるためには、それが一ばんいいと皆が言うので、母もその気になったらしいが、どんなものかねえ。あの人たちは、もうとしをとっているし、まあ茶飲友達でも作るような気持で結婚したんだろうが、僕には、やっぱり何だか、てれくさいな。でも僕は、そんな事は、あまり深く考えないようにしているんだ。仕様がないじゃないか。人の子として、?れこれ親の事を下劣に詮索《せんさく》するのは許すべからざる悪徳だ。そんな下等の子は、人間の仲間入り出来ない。そうじゃないかね。一時は、たまらなく淋《さび》しかったけれど、僕は今では、考えないようにしている。僕ひとりの愛憎の念に拠《よ》って、世の中が動いているものでもないんだしね、まあ、あの人たちの事は、あの人たちに任せるより他は無いよ。どうだね? 答弁は、これくらいで許してくれよ。どうも、いろいろ複雑なんだ。だけど叔父さんは、悪いひとじゃない。それだけは、たしかだ。小さい策士かも知れないけれど、決して大きい悪党じゃない。何が出来るもんか。」
 ホレ。「ありがとう。ハムレットさま。それを伺って、僕は、全く安心しました。どうか、これからも王さまを、変らず信じてあげて下さい。僕も、いまの王さまを好きなのです。文化人でいらっしゃる。情の厚いお方だと思う。ハムレットさまの、いまの御意見は、僕に百倍の勇気を与えて下さいました。僕からお礼申します。ハムレットさまは、やっぱり、昔のままに明朗ですねえ。純真の判断には、曇りが無い。いいなあ、僕は嬉《うれ》しくなっちゃった。」
 ハム。「おだてちゃいけない。急に御機嫌がよくなったじゃないか。勝手な奴《やつ》さ。ホレーショー、君もやっぱり、昔のままの、おっちょこちょいだよ。それで? 噂ってのは、何さ。僕が乱心して、幽霊が出て、それから何が出たんだ。鼠《ねずみ》でも出たか。」
 ホレ。「鼠どころか、いや実に愚劣だ。言語道断だ。けしからぬ。デンマークの恥だ。ハムレットさま、お話しましょう。いや、どうにも、無礼千万、奇怪至極、尾籠《びろう》低級!」
 ハム。「もういい、そんな下手な形容詞ばかり並べられても閉口だ。君もウイッタンバーグの劇研究会に入会したのかね。」
 ホレ。「まず、そんなところです。ちょっと憂国の詩人という役を演じてみたかったのです。僕は、本当は、もう安心しちゃったのです。さっきハムレットさまから、あんな明快な判断を承って、心に遊びの余裕が出ました。ハムレットさま、笑っちゃいけませんよ、実に、ばからしい噂が立っているのです。あなたは、きっとお笑いになるでしょう。でも、これは、デンマークの国中にひろがり、外国の大学にいる僕たちの耳にまではいって来ているんですから、ただ笑ってすます訳にもいかないと思うんです。大いに取りしまりの必要があります。笑っちゃいけませんよ。どうも、僕も、申し上げるのが馬鹿馬鹿しくなって来ました。先王の幽霊が毎晩あらわれて、かたきをとっておくれって頼むんだそうですよ、ハムレットさま、あなたに。」
 ハム。「僕にかい? へんだなあ。」
 ホレ。「まったく。なっちゃいないんです。その上、ばからしい、まだつづきがあるんです。その幽霊の曰《いわ》くです、我輩はクローヂヤスに殺された、クローヂヤスは、わが妃に恋慕し、――」
 ハム。「そいつあ、ひどい。恋慕はひどい。お母さんは総入歯だぜ。」
 ホレ。「だから、笑っちゃいけませんと言ったじゃないですか。まあ、お聞きなさい。つづきがあるんです。妃を横取り、王位も共に得んとして、我輩の昼寝の折に、油断を見すまし忍び寄り、わが耳に注ぎ入れたる大毒薬、というわけなんですがね、念がいってるでしょう? やよ、ハムレット、汝《なんじ》孝行の心あらば此のうらみ、ゆめゆめ忍ぶ事なかれ、と。」
 ハム。「よせ! たとえ幽霊にもせよ、父の声色《こわいろ》を、やたらに真似《まね》るのは止《よ》し給《たま》え。死者の事は、厳粛にそっとして置いてやってくれ。少し冗談が過ぎたようだね。」
 ホレ。「ごめんなさい。うっかり調子に乗りました。決して故王の御遺徳を忘却したわけではありません。あまり馬鹿らしい話なので、つい、ふざけ過ぎてしまいました。ごめんなさい。心ならずも、ハムレットさまの御愁傷の筋に触れてしまいました。どうも、ホレーショーは、おっちょこちょいでいけません。」
 ハム。「いや、なんでもないんだ。僕こそ大声で怒鳴ったりなんかして失礼した。わがままなんだよ。気にかけないでくれ。それから、その幽霊は、どうなるんだね? 話してくれよ。奇想天外じゃないか。」
 ホレ。「はい、その幽霊は、毎晩のようにハムレットさまの枕《まくら》もとに立ってそう申しますので、ハムレットさまは、恐怖やら疑心やら苦悶《くもん》やらで、とうとう御乱心あそばされたという根も葉も無い話でございます。」
 ハム。「あり得る事だ。」
 ホレ。「え?」
 ハム。「あり得る事だろうよ。ホレーショー、僕は何だか、気持が悪くなった。ひどい噂を立てやがる。」
 ホレ。「やっぱり、申し上げないほうがよかったんじゃないでしょうか。」
 ハム。「いや、聞かせてもらって大いによかった。汝、孝行の心あらば、か。ははん、ホレーショー、その噂は本当だよ。僕は、お人好しだったよ。」
 ホレ。「何をおっしゃる。つむじを曲げるとは、その事です。はしたない民の噂に過ぎません。どこに根拠があるのです。」
 ハム。「君には、わからん。僕は、くやしいのです。わからんだろうね。根も葉も無い事で侮辱をうけるのと、はっきりした根拠があって噂を立てられるのと、どっ
前へ 次へ
全20ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング