うと思ったのです。せんだってお嫂さんが、兄さんに、
「綺麗なひとの絵姿を私の部屋の壁に張って置いて下さいまし。私は毎日それを眺めて、綺麗な子供を産みとうございますから。」と笑いながらお願いしたら、兄さんは、まじめにうなずき、
「うむ、胎教か。それは大事だ。」
 とおっしゃって、孫次郎というあでやかな能面の写真と、雪の小面という可憐《かれん》な能面の写真と二枚ならべて壁に張りつけて下さったところまでは上出来でございましたが、それから、さらにまた、兄さんのしかめつらの写真をその二枚の能面の写真の間に、ぴたりと張りつけましたので、なんにもならなくなりました。
「お願いですから、その、あなたのお写真だけはよして下さい。それを眺めると、私、胸がわるくなって。」と、おとなしいお嫂さんも、さすがに我慢できなかったのでしょう、拝むようにして兄さんにたのんで、とにかくそれだけは撤回させてもらいましたが、兄さんのお写真なんかを眺めていたら、猿面冠者みたいな赤ちゃんが生れるに違いない。兄さんは、あんな妙ちきりんな顔をしていて、それでもご自身では少しは美男子だと思っているのかしら。呆《あき》れたひとです。本当にお嫂さんはいま、おなかの赤ちゃんのために、この世で一ばん美しいものばかり眺めていたいと思っていらっしゃるのだ、きょうのこの雪景色を私の眼の底に写して、そうしてお嫂さんに見せてあげたら、お嫂さんはスルメなんかのお土産より、何倍も何十倍もよろこんで下さるに違いない。
 私はスルメをあきらめてお家に帰る途々《みちみち》、できるだけ、どっさり周囲の美しい雪景色を眺めて、眼玉の底だけでなく、胸の底にまで、純白の美しい景色を宿した気持でお家へ帰り着くなり、
「お嫂さん、あたしの眼を見てよ、あたしの眼の底には、とっても美しい景色が一ぱい写っているのよ。」
「なあに? どうなさったの?」お嫂さんは笑いながら立って私の肩に手を置き、「おめめを、いったい、どうなさったの?」
「ほら、いつか兄さんが教えて下さったじゃないの。人間の眼の底には、たったいま見た景色が消えずに残っているものだって。」
「とうさんのお話なんか、忘れたわ。たいてい嘘なんですもの。」
「でも、あのお話だけは本当よ。あたしは、あれだけは信じたいの、だから、ね、あたしの眼を見てよ。あたしはいま、とっても美しい雪景色をたくさんたくさん見て来
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