業も何も投げ棄ててしまっている有様である。しかし、それも憂国の至情の発するところ、無理もないと思われるのであるが、中にはこのどさくさにまぎれて自身の出世を計画している者もあり、ひどいのは、れいの速成教育で石鹸《せっけん》製造法など学び、わずか一箇月の留学であやしげな卒業証書を得て、これからすぐ帰国して石鹸を製造し、大もうけをするのだ、と大威張りで吹聴《ふいちょう》して歩いている風変りの学生さえあったほどで、自分が時たま、神田|駿河台《するがだい》の清国留学生会館に用事があって出かけて行くと、その度毎に二階で、どしんどしんと物凄《ものすご》い大乱闘でも行われているような音が聞えて、そのために階下の部屋の天井板が振動し、天井の塵《ちり》が落ちて階下はいつも濛々《もうもう》としていた。その変異が、あまり度重なるので、或る日、自分は事務所の人に二階ではどのような騒動が演じられているのかと尋ねたらその事務所の日本人のじいさんは苦笑しながら、あれは学生さんたちがダンスの稽古《けいこ》をしていらっしゃるのですと教えてくれた。もう自分には、このような秀才たちと一緒にいるのがとても堪え切れなくなって来た。いまは支那にとって、新しい学問が絶対に必要な時なのだ。列国の猛威に対抗するためには、打清興漢の政治運動も勿論《もちろん》急務に違いないが、しかし、新しい学問に依って、列国の威力の本質を追求する事も自分たち学生に負わされた職業ではなかろうか。もとより自分は孫先生を尊敬し、その三民五憲の説に共感している事においてもあえて人後に落ちぬつもりであるが、しかし、その三民主義の民族、民権、民生の説の中で、自分には民生の箇条が最も理解が容易であった。いつも自分の目先にちらついているものは、少年の頃、三春秋、父の病気をなおそうとして質屋の店台と薬屋の店台の間を毎日のように往復し、名医と称せられる詐欺師の言を信じて、平地木やら原配の蟋蟀《しっしゅつ》やらをうろうろ捜し廻っている自分の悲惨な姿であった。また眠られぬ夜など、自分の耳にひそひそ入って来る声は、愚《おろか》な迷信にたより、父の霊魂を引きとめようとして瀕死《ひんし》の父の枕元《まくらもと》で喉《のど》も破れよと父の名を呼んだ、あのあさましい自分の喚《わめ》き声である。あれが支那の民衆の姿だ。いまだって、少しも変ってはいないのだ。聖賢の言は、生活の虚飾として用いられ、いたずらに神仙の迷信のみ流行し、病人は高価な敗鼓皮丸《はいこひがん》を押し売りされて、日増《ひまし》に衰弱するばかりなのだ。この支那の民衆の現状をどうする。この惨めな現状に対する忿懣《ふんまん》から、自分は魂を毛唐に一時ゆだねて進んで洋学に志したのだ。母にそむいて故郷を捨てたのだ。自分の念願は一つしか無い。曰《いわ》く、同胞の新生である。民衆の教化なくして、何の改革ぞや、維新ぞや。然《しか》も、この民衆の教化は、自分たち学生の手に依らずして、誰がよく為《な》し得るところか。勉強しなければならぬ。もっと、もっと、勉強しなければならぬ。自分はその折、漢訳の明治維新史を読んでみた。そうして日本の維新の思想が、日本の一群の蘭学者に依って、絶大の刺戟を受けたという事実を知った。これだと思った。これだからこそ日本の維新も、あのように輝かしい成功を収めることが出来たのだと思った。何よりもまず、科学の威力に依って民衆を覚醒《かくせい》させ、之《これ》を導いて維新の信仰にまで高めるのでなければ、いかなる手段の革命も困難を極めるに違いない。まず科学だ、と自分はその維新史を読んで、はじめて自分の生涯の方針をさぐり当てたような気がした。支那はいまこの科学の力にヒって、大にしては列国の侵略と戦い、その独立性を保全し、小にしては民衆個々の日常生活を潤《うるお》し新生の希望と努力をうながすべきである。これは自分のあまい夢であろうか。夢でもよい。自分はその夢の実現のために、生涯を捧げ切る。自分のこれからの生涯はおそらく少しも派手なところの無い、ひどく地味なものになるだろう。しかし、自分は民衆のひとりひとりに新生の活力を与え、次第に革命の信仰にまで導いて行くのだ。愛国の至情の発現は、多種多様であるべきだ。必ずしもいますぐ政治の直接行動に身を投ずる必要は無い。自分は、いまもっと勉強しなければならぬ。まず科学の中の、医学を修めよう。自分に新しい学問の必要を教えてくれたのは、あの少年の頃の医者の欺瞞《ぎまん》だ。あの時の憤怒《ふんぬ》が、自分に故郷を捨てさせたのだ。自分の新しい学問への志願は、初めから医術とつながっていたとも言える。瀕死の父の枕元で、父の名を絶叫したあの時の悲惨な声が、いつでも自分の耳朶《じだ》を撃って、自分を奮激させて来たではないか。医者になろう。明治維新史に依ると、当時の蘭学者の大部分も医者であった。いや、西洋の医術を学び取るために、蘭語の勉強を始めた者も多かった。それほど、日本に於《おい》ても、更に進歩した医術が他のどんな科学よりもさきに、民衆に依って渇望されていたのだ。医学は、民衆の日常生活に最も近い結びつきを持っているものだ。病いをなおしてやるというのは、民衆の教化の第一歩だ。自分はまず、日本に於いて医学を修め、帰国して自分の父のように医者にあざむかれてただ死を待つばかりのような病人を片端から全治させて、科学の威力を知らせ、愚な迷信から一日も早く覚醒させるよう民衆の教化に全力を尽し、そうして、もし支那が外国と干戈《かんか》を交えた時には軍医として出征し、新しい支那の建設のため骨身を惜しまず働こう、とここに自分の生涯の進路がはじめて具体的に確定せられたわけであったが、ひるがえって、自分の周囲を見渡すと、富士山の形に尖《とが》った制帽であり、市街鉄道の中の過度の礼譲の美徳であり、石鹸製造であり、大乱闘の如きダンスの練習である。そうしてことしの二月、日本は北方の強大国露西亜に対して堂々と戦を宣し、日本の青年たちは勇躍して戦場に赴き、議会は満場一致で尨大《ぼうだい》の戦費を可決し、国民はあらゆる犠牲を忍んで毎日の号外の鈴の音に湧き立っている。自分は、この戦争は大丈夫、日本が勝つと思う。このように国内が活気|汪溢《おういつ》していて、負ける筈はない。それは自分の直感であるが、同時に、自分はこの戦争が勃発《ぼっぱつ》して以来、非常に恥かしい気分に襲われた。この戦争は、人に依っていろいろの見方もあるであろうが、自分はこの戦争も支那の無力が基因であると考えている。支那に自国統治の実力さえあったなら、こんどの戦争も起らなくてすんだであろうに、これではまるで支那の独立保全のために日本に戦争してもらっているようにも見えて、考え様に依っては、支那にとってはまことに不面目な戦争ではあるまいか。日本の青年達が支那の国土で勇敢に戦い、貴重な血を流しているのに、まるで対岸の火事のように平然と傍観している同胞の心裡《しんり》は自分に解しかねるところであった。しかも同じ年配の支那の青年たちが、奮起するどころか、相も変らず清国留学生会館でダンスの稽古にふけっているのを見るに及んで、自分もようやく決意した。しばらく、この留学生の群と別れて生活しよう。自己嫌悪、とでもいうのであろうか、自分の同胞たちの、のほほん顔を見ると、恥かしくいまいましく、いたたまらなくなるのだ。ああ、支那の留学生がひとりもいない土地に行きたい。しばらく東京から遠く離れて、何事も忘れ、ひとりで医学の研究に出精したい。もはや躊躇《ちゅうちょ》している時では無い。自分は麹町《こうじまち》区永田町の清国公使館に行き、地方の医学校へ入学の志望を述べ、やがて、この仙台医専に編入されることにきまった。東京よ、さらば。選ばれた秀才たちよ、さらば。いよいよお別れとなると、さすがに淋《さび》しかった。汽車で上野を出発して、日暮里《にっぽり》という駅を通過し、その「日暮里」という字が、自分のその時の憂愁にぴったり合って、もう少しで落涙しそうになった。それからしばらくして水戸という駅を通過し、これは明末の義臣|朱舜水《しゅしゅんすい》先生の客死されたところ、Wandervogel の大先輩の悲壮の心事を偲《しの》び、少しく勇気を得て仙台に着いた。仙台は日本の東北で最も大きい都であると聞いていたが、来て見ると、東京の十分の一にも足りないくらいの狭い都会であった。まちの人の言葉も、まさか鴃舌《げきぜつ》というほどではなかったが、東京の人の言葉にくらべて、へんに語勢が強く、わかりにくいところが多かった。まちの中心は流石《さすが》に繁華で、東京の神楽坂《かぐらざか》くらいの趣ォはあったが、しかし、まち全体としては、どこか、軽い感じで、日本の東北地方の重鎮《じゅうちん》としてのどっしりした実力は稀薄《きはく》のように思われた。かえってもっと北方の盛岡、秋田などというあたりに、この東北地方の豊潤な実勢力が鬱積《うっせき》されているのだが、仙台は所謂《いわゆる》文明開化の表面の威力でそれをおさえつけ、びくびくしながら君臨しているというような感じがした。ここは伊達政宗《だてまさむね》という大名の開いたまちだそうであるが、日本で、der Stutzer の気取屋のことを「伊達者」といっているのは、案外、仙台のこんな気風をからかったことから始ったのではないかしらと思われるほど、意味も無く都会風に気取っているまちであった。要するに、自信も何も無いくせに東北地方第一という沽券《こけん》にこだわり、つんと澄ましているだけの「伊達のまち」のように自分には思われたのだが、しかし、あなたがさっき話してくれたように北方の奥地からいきなりこの仙台に出て来た人にとっては、この土地の文明開化も豪華|絢爛《けんらん》たるものに見えて、これに素直に驚歎し、順服するというのは自然の事で、これこそ仙台の開祖政宗公が東北地方全体を圧倒雄視するために用いた政策の狙《ねら》いで、それが伝統的な気風になり、維新後三十七年を経過したいまでも、その内容空疎に多少おどおどしながらやっぱり田舎紳士《いなかしんし》の気取りを捨て切れないでいるのである。しかし、こんな悪口を言っても、自分はこの仙台のまちに特に敵意を抱《いだ》いているというわけでは決してない。地方の、産業の乏しい都会は、たいていこんな悲しい気取りで生きているものだ。これから自分は一生涯の、おそらくは最も重大な時期を、仙台のまちに委《ゆだ》ねてしまうのだから、つい念入りにこのまちの性格に就いて考え、あれこれと不満を並べてみたくなっただけの事で、こんな気風のまちは、学問するにはかえって好適の土地なのかも知れない。事実、このまちへ来てから、自分の学習は順調である。多分、物は希《ま》れなるを以て貴《とうと》しとするからであろう、自分は、この仙台のまちにとって、最初の、また唯《ただ》一人の清国留学生だというので、非常に珍重がられ、それこそあなたの言うように、何の見どころのない烏《からす》でも、ただ一羽枯枝にとまっているとその姿もまんざらでなく、漆黒《しっこく》の翼《つばさ》も輝いて見えるらしく、学校の先生たちもまるで大事なお客様か何かのように自分を親切にあつかってくれるので、自分はかえってまごついているくらいである。自分にとって、こんなに皆から温情を示されるのは、生れてはじめてのことである。きっと枯枝の烏を、買いかぶっているのに違いない。有難く思うと同時に、また、あの人たちの好意を裏切ったら相すまぬという不安も自分は持っている。同級生たちも、おそらくは物珍らしさからであろう、朝、教室で顔を見合わせると、たいてい、向うから微笑《ほほえ》みかけてくれるし、また、隣りの席に坐った生徒は、進んで自分にナイフや消ゴムを貸してくれて、中でも津田憲治とかいう東京の府立一中から来たのを少し自慢にしている背の高い生徒は最も熱烈な関心を持っているようで、何かと自分にこまかい指図《さしず》をしてくれて、カラアがよごれていますよ、クリイニングに出しなさい、とか、雨降り
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