、それできょうまで僕はこの学校に愚図愚図していたと言ってもよいのです。しかし、」と顔を上げて、「もう、しかし、やむにやまれないのです。あの同胞の表情を見た以上は、もう左顧《さこ》も右眄《うべん》もして居られません。日本の忠義の一元論も、こんなものではないかしら。そうだ。僕は、やっとあの哲学が体得できました。帰国して、僕はまずあの民衆の精神の改革のため、文芸運動を起します。僕の生涯は、そのために捧《ささ》げてしまうのです。とにかく一旦《いったん》、帰国し、故郷の弟とも相談して一緒に文芸雑誌を出して、そう、その雑誌の名前も、きょう、いま、はっきりきまりました。」
「どんな名前ですか?」
「新生。」
と一言、答えて微笑した。その笑いには、周さん自ら称していたあの「奴隷の微笑」の如き卑屈の影は、みじんも見受けられなかった。
老医師の手記は、以上で終っているが、自分(太宰)は、さらに次の数行を附加して、この手記の読者の参考に供したい。
全世界に誇るべき東洋の文豪、魯迅先生の逝去《せいきょ》せられたのは、昭和十一年の秋であるが、それに先立つこと約十年、先生四十六歳の昭和元年に、「藤野先生」という小品文を発表せられた。その一部を抜萃《ばっすい》すれば、
[#地から2字上げ](松枝茂夫氏の訳に拠る)
「(前略)第二学年の終りになって、僕は藤野先生を訪ねて、もう医学の勉強はやめようと思うこと、そしてこの仙台を去るつもりでいることを、先生に告げた。先生の顔には深い悲哀の色が浮び、何か言いたげな御様子であったが、とうとう言い出されなかった。
『僕は生物学を学ぼうと思います。先生が僕に教えて下さった学問は、やはりそれにも役立つかと思います。』だが実は、僕は生物学を学ぼうと決心していたわけではなかった。先生がひどく悽然《せいぜん》とした様子をしていらっしゃるのを見たため、先生を慰めるつもりで心にもない嘘《うそ》をついたのである。
『医学のために教えた解剖学の類は、怕《おそ》らく生物学には大して役にも立つまい。』と先生は、歎息しておっしゃった。
立つ四五日前に、先生は僕をご自分のお宅に呼んで、そうして僕に先生のお写真を一枚下さった。その写真の裏には『惜別』と二字書かれてあった。そして僕の写真も呉《く》れるようにと希望された。だが僕はその時あいにく写真を撮《と》っていなかった。先生は将来、撮って送ってくれるように、そして折々たよりをしてその後の様子を知らせるようにとお頼みになった。
僕は仙台を去った後、多年写真を撮ったことがなかった。それに、その後の僕の様子も面白くなく、お知らせすれば先生を失望させるばかりであると思うと、手紙さえ書けなかったのである。年月が余計に経過するにしたがい、いよいよ何からお話してよいやら惑《まど》うばかりで、たまにお便りを差上げようと思って、筆を執《と》っても、一字もしたためる事が出来なかった。かくてそれっきり今日まで、ついに一本の手紙も一枚の写真も送らずに過して来てしまったのである。先生の側からいえば、僕は去ったが最後、杳《よう》として音沙汰《おとさた》なしというところであろう。
だが、何故《なぜ》だか知らぬが、僕は二十年後の今でも、折にふれて先生を思い出す。僕がわが師と仰いでいる人の中で、先生こそは最も僕を感激せしめ、僕を鼓舞激励して下さった一人であった。時々、僕はこう考える。先生の僕に対する熱心なる希望と、倦《う》まざる教晦《きょうかい》とは、小にして之《これ》を言えば、これ中国のためであり、即ち中国に新しい医学の起らん事を希望せられたのであり、大にして之を言えば、これ学術のためであり、即ち新しき医学を中国に伝えようと希望されたのである。先生の人格は、僕の眼中に於いて、また心裡《しんり》に於いて、偉大である。先生の姓名を知る人は極めて少いであろうが。
先生が訂正して下さったノオトを、僕は三冊の厚い本に装幀《そうてい》して、永久の記念にするつもりで、大事にしまって置いた。不幸にして七年前、遷居《せんきょ》の際に、途中で一つの本箱を壊《こ》わし、その半数の書籍を紛失したが、ちょうどこのノオトも、その時に共に紛失してしまったのである。運送店に捜すよう詰責《きっせき》したが、絶えて返事が無かった。ただ、先生のお写真のみは今なお僕の北京《ペキン》の寓居《ぐうきょ》の東側の壁に、書卓のほうに向けて掛けてある。夜間、倦《う》んじ疲れて、懈怠《けだい》の心が起ろうとする時、頭をもたげて燈光の中に先生の黒い痩《や》せたお顔を瞥見《べっけん》すると、いまにも、あの抑揚|頓挫《とんざ》のある言葉で話しかけようとしていらっしゃるかの如くに思われる。と忽《たちま》ち、それが、僕の良心を振いおこさせ、そして勇気を倍加させてくれる。そこで僕は一本の煙草に火を点じて、再び、所謂『正人君子』の輩に、深く憎悪されるところの文章を書きつづけるのである。」
後に日本に於いて、魯迅先生の選集の出版せられるに当り、日本の選者は先生に向って、どの作品を選んだらよいかと問い合せたところが、先生は、それは君たちの一存で自由に選んでよろしい、しかし「藤野先生」だけは必ずその選集にいれてもらいたい、と言われたという。
[#改頁]
あとがき
この「惜別」は、内閣情報局と文学報国会との依嘱《いしょく》で書きすすめた小説には違いないけれども、しかし、両者からの話が無くても、私は、いつかは書いてみたいと思って、その材料を集め、その構想を久しく案じていた小説である。材料を集めるに当って、何かと親しく相談に乗って下さった方は、私の先輩に当る小説家、小田|嶽夫《たけお》氏である。小田氏と支那《しな》文学の関係に就《つ》いては、知らぬ人もあるまい。この小田氏の賛成と援助が無かったら、不精《ぶしょう》の私には、とてもこのような骨の折れる小説に取りかかる決意がつかなかったのではあるまいかとさえ思われるほどである。小田氏にも、「魯迅伝」という春の花のように甘美な名著があるけれども、いよいよ私がこの小説を書きはじめた、その直前に、竹内好氏から同氏の最近出版されたばかりの、これはまた秋の霜《しも》の如くきびしい名著「魯迅」が、全く思いがけなく私に恵送《けいそう》せられて来たのである。私は竹内氏とは、未だ一度も逢《あ》った事が無い。しかし、竹内氏が時たま雑誌に発表せられる支那文学に就いての論文を拝読し、これはよい、などと生意気にも同氏にひそかに見込を附けていたのである。いつか小田氏にお願いして、竹内氏に紹介してもらおうかとさえ思っていたのであるが、そのうちに竹内氏は出征なされたとか。それで、この竹内氏のご苦心の名著も、竹内氏のお留守の間に出版せられ、そうして、竹内氏が出征の際に、あの本が出来たら、太宰にも一部送ってやれ、とでも言い残して行かれたのであろうか、出版元から「著者の言いつけに依《よ》り貴下に一部贈呈する」という意味の送状が附け加えられていた。これだけでも既に不思議な恩寵《おんちょう》なのに、さらにまた、その本の跋《ばつ》に、この支那文学の俊才が、かねてから私の下手《へた》な小説を好んで読まれていたらしい意外の事実が記されてあって、私は狼狽《ろうばい》し赤面し、かつはこの奇縁に感奮し、少年の如く大いに勢いづいてこの仕事をはじめたというわけである。
しかし、出来栄えはごらんの通りで、小田氏のかずかずの御助力にも、また竹内氏の遠方からの御支持にも、果してお報いできるかどうか、甚《はなは》だ心許《こころもと》ない次第である。
また、この仕事に取りかかるに当って、仙台医専の歴史調査のため、東京帝大の大野博士、東北帝大の広浜、加藤両博士から、それぞれ紹介状をいただき、また仙台河北新報社の好意で、仙台市の歴史を知るために同社秘蔵の貴重な資料は片端から読破できた事は、私のこの仕事に、どんなに役立ったかわからない、私のような、ほとんど無名の作家に、このような便宜が得られたのは、もちろん内閣情報局と文学報国会の力に依る事と思うが、また、見るからにむさくるしい一介の貧書生に、こころよく紹介状をしたためてくれ、また、門外不出の大事な資料を自由に閲覧させて下さった皆さんの御好志のほどは忘れ難い。
なお、最後に、どうしても附け加えさせていただきたいのは、この仕事はあくまでも太宰という日本の一作家の責任に於いて、自由に書きしたためられたもので、情報局も報国会も、私の執筆を拘束《こうそく》するようなややこしい注意など一言もおっしゃらなかったという一事である。しかも、私がこれを書き上げて、お役所に提出して、それがそのまま、一字半句の訂正も無く通過した。朝野一心、とでも言うべきであろうか、これは、私だけの幸福ではあるまい。
底本:「太宰治全集7」ちくま文庫、筑摩書房
1989(昭和64)年3月28日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月
入力:柴田卓治
校正:青木直子
2000年6月20日公開
2004年3月4日修正
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