四孝は、落語にされて、これは笑いの種になっています。」
「いや、どうも、」と私は内心、恐悦《きょうえつ》の念禁じ難く、「日本人は口が悪いですからね。べつにお国のそのような教えを軽蔑しているわけではないのですが、どうも辛辣《しんらつ》な嘲笑癖《ちょうしょうへき》があっていけません。」
「いいえ、日本人の悪口は、威勢がいいだけで、むしろ淡泊《たんぱく》です。辛辣というのは当りません。支那には他媽的《タマテイ》という罵言《ばげん》がありますが、これなどが本当の辛辣といっていいでしょう。ひどい言葉なんです。あまりに下劣で、意味は言いたくありませんが、おそらく世界中でこんな致命的な罵言を発明する民族は、他にはありますまい。これだけは世界一です。」
「そのタマテイとかいうのはどんなものだか知りませんけれど、しかし、それだけでなく、支那には何か世界一というような感じのものが、他にもたしかにあるような気がします。これは僕のいわば、まあ、勘だけで言っているのですが、お国には、僕たちの想像を絶した偉大な伝統が流れているような気がしてならないのです。あなたは、ずいぶんお国の事を悪く言いますが、しかし、藤野先生もおっしゃっていました、支那にいい伝統が残っているから、その伝統の継承者に、その反抗者も出て来るのだ、と言っておられましたが、僕はあなたが支那の批判をするのを聞いていて、いつもかえって支那の余裕を感じるのです。支那は決して滅亡しません。あなたのような人が、十人いたら、支那は名実ともに世界の一等国になります。」
「おだてちゃいけません。」と周さんは苦笑して、「支那もいまのままでは、だめですよ。絶対にだめです。余裕なんて、そんないい加減な自負心を持っているうちは、だめです。日本の人は、みな、襷《たすき》がけです。ムキです。まじめです。支那は、日本のこの態度を学ばなければいけないのです。」
その頃、何かにつけて、こんな工合に周さんと、日支比較論議とでもいうべきものが風発せられたのである。周さんは、この学年がすんで夏休みになったら、東京へ行き、同胞の留日学生たちに、周さんの発見した神の国の清潔|直截《ちょくせつ》の一元哲学を教えて啓発してやるのだと意気込んでいたが、やがて夏休みになり、周さんは東京へ、私は山奥の古里に、二箇月ばかり別れて暮し、九月、新学年の開始と共に、また周さんのなつかしい顔を仙台で見た時、私は、おや? と思った。どこがどうというわけではないが、何だか、前の周さんと違っているのだ。よそよそしいという程でもないが、瞳孔《どうこう》が小さくするどくなった感じで、笑っても頬にひやりとする影があった。
「東京はどうでしたか。」と尋ねても、妙に苦しそうに笑って、
「東京は、もう、みんないそがしくて、電車の線路が日に日に四方に延びて行って、まあ、あれがいまの東京の Symbol でしょう、ガタガタたいへん騒がしくて、それに、戦争の講和条件が気にいらないと言って、東京市民は殺気立って諸方で悲憤の演説会を開いて、ひどく不穏《ふおん》な形勢で、いまに、帝都に戒厳令が施行せられるだろうとか何とか、そんな噂《うわさ》さえありました。どうも、東京の人の愛国心は無邪気すぎます。」
「お国の学生たちに、忠の一元論はどうでしたか、何か反響がありましたか。」
周さんは急に歯痛が起ったみたいに頬をゆがめて、
「これもまた、いそがしくて、何が何やら、僕には、もうわからなくなりました。日本人の愛国心は不穏でも何でも、本質が無邪気で明るいけれども、僕のほうの愛国心は複雑で暗くて、いや、そうでもないのかな? とにかく、僕には、わからない事が多い。むずかしいのです。なんにも、わからない。」と冷たく微笑して、「しかし、日本の青年たちは、いまずいぶん世界の文学を研究していますね。本屋へ行ってみて、驚きました。各国の文学の書物が、どっさり入荷していて、日本の若い人たちは、熱心にあれこれ選んで買っています。何か、生命の充実、とでもいうようなものに努めているのでしょうかね。僕も真似《まね》して、少しそんな書物を買って持って来ました。負けずにこれから研究してみるつもりです。僕の競争相手は、あんな東京の若い人たちです。あの人たちは何か新しい世界に erwachen しているようです。まあ、東京に就《つ》いての御報告は、そんなものです。」
そうして、授業がすむと、さっさと自分の下宿に帰って行き、以前のように私の下宿に遊びに来る事もほとんど無くなった。木枯しの強い夜、めずらしく、れいの津田氏が、へんな顔をして私の下宿にやって来て、
「おい、いやな事件が起ったよ。」と言い、ポケットから一通の手紙を出して私に見せた。宛名《あてな》は、周樹人殿、としてある。差出人は、直言山人、となっている。下手《へた》な匿名《とくめい》だなあ、といささか呆《あき》れ、顔をしかめて手紙の内容を読んでみた。内容の文章は、さらにもっと下手くそであった。字も、いやに肩を怒らした野卑な書体で、どうにも、くさいにおいが発するくらいに、きたならしい手紙であった。まず、
汝《なんじ》悔い改めよ!
と大書してある。私は、ぞっとした。私はこんな予言めいたキザな言葉は、昔も今も大きらいである。つづいて、珍妙な、所謂「直言」が試みられている。何だか、くどくどした「直言」で、頗《すこぶ》るわかりにくいものであったが、要するに、汝は卑怯《ひきょう》である、汝は藤野先生から解剖学の試験問題を、あらかじめ漏らしてもらっていたのだ、その証拠には、汝の解剖学のノオトには、藤野先生が赤インキで何やら印をつけてある。汝には及第の資格が無いのだ、悔い改めよ! という事なのである。
「なあんだ、これは。」私はその手紙を破ろうとしたら、津田氏はあわてて、
「あ、待て待て。」と言い、素早く手紙を私から奪い取り、「大事件だよ、これは。君とこれから、いろいろ相談してみたいんだ。実に不愉快な事件だ。酒でも飲まずには居られない気持だ。この家に、お酒が少し無いかしら。」
私は苦笑して、下宿の家族の者に、お酒はありませんか、と尋ねた。お酒は今夜、亭主が飲んでしまったが、ビイルならある、という女房の返事だ。
「ビイルでいいですか?」と津田氏に聞くと、津田氏はちょっと悲痛な顔をして、
「ビイルか。木枯しを聞きながら、ビイルは野暮《やぼ》の骨頂だが、まあ、よかろう。かまわぬ。持って来い。」
津田氏はひとりでビイルをぐいぐい飲み、
「わあ、寒い。秋のビイルは、いかん!」と叫び、わなわな震え出し、それから、どもりどもりこんどの事件の重大性に就いて説きはじめたのであるが、なにせ、唇を紫色にして全身ぶるぶる震わせながらの講釈であるから、さすがに少し、ただ事で無いようなものものしい雰囲気《ふんいき》も出て来た。
これは国際問題だ、と彼はれいの如く大袈裟な事を言うのである。周さんは一人に似て一人では無い。いま、清国留学生は日本全国に散在して、その数すでに一万ちかくに及んでいる。すなわち、周さんの背後には、一万名の清国留学生が控えている。周さんひとたび怒らば、この一万の留学生は必ず周さんを応援して立ち上る。しかる時には、仙台医専の不名誉は言うもさらなり、わが文部省、外務省も、清国政府に対し陳謝しなければならなくなるやも計り難い。実に、日支親善外交に、一大汚跡を、踏み残す事になる。君は之《これ》に就いてどう思うか、と言うのだが、まいどの事でもあり、私はれいのとおり、いい加減に聞き流して、
「周さんは、その手紙を見たのですか?」
「見た。きょう僕たちが一緒に学校から帰ったら、この手紙が下宿にとどいていたのだ。周さんはそれを帳場から受取って無雑作にポケットにいれて、階段を昇って行ったが、この時、僕には一種の霊感が働いた。ちょっと、と呼びとめた。いまの手紙をここで開封してくれ給え、と言った。周さんは、廊下に立ちどまり、黙って手紙の封を切った。そうして内容を、ほんのちょと読んで、破ろうとした。」
「そうでしょう。こんな不潔な手紙、誰だって破りたくなりますよ。」
「まあ、そう言うな。とたんに僕はその手紙を取り上げて読んで、きゃついよいよやりやがったな、と。」
「なあんだ。あなたは、この手紙の差出人を知っているらしいじゃないですか。」
「何を隠そう、知っているんだ。矢島だ。あいつだ。あの Landdandy さ。」
そう言われて私は、ふっと、数日前の小さい出来事を思い出した。藤野先生の時間だ。先生が教室へはいっていらっしゃると同時に、クラス会の新幹事の矢島が、つと立って行って黒板に、明日クラス会開催の事を記し、そうして、全部漏れなく出席せられたし、と書き添え、それから「漏」という字に二重丸を附けた。五、六人の生徒は、どっと笑った。私は、いつもクラス会には人が集らないから、特に「漏れなく」という事を強調したのだろう、くらいに軽く考えていた。しかし、それは矢島の陋劣《ろうれつ》なあてこすりだったのだ。そこには藤野先生も周さんもいるから、試験問題の「漏洩《ろうえい》」を暗に皮肉るつもりで、矢島が卑屈の小細工をしたのだ。それに気がついたら、むっとして来て、
「殴《なぐ》ってしまいましょう。」ただ、きたならしいものとして黙殺するくらいでは、すまないと思った。私は自分の平凡な六十年の生涯に於いて、ひとを本気に殴ろうと思ったのは、この時いちどだけと言ってよい。今夜これから彼の家へ行って、存分に打ち据《す》えて来ようと思った。私はこの矢島という立派な口髭《くちひげ》をはやした生徒を、前から大きらいだったのである。彼は仙台の東北学院だか何だかのキリスト教の学校の出身で、まさかそのせいでも無かろうが、周さんの語彙《ごい》を借りて言えば、伊達藩の der Stutzer, また、津田氏の言にしたがえば、田舎《いなか》ダンディ、そんな感じのいやに尊大ぶった男で、はじめは教室でも神妙らしくしていたが、親爺《おやじ》が何でもこの仙台の大金持とやらで、その親爺の七光りが次第にものを言い出して来たというわけでもあろうか、いつのまにやらクラスの顔役みたいなものになってしまって、この新学年のクラス会幹事の改選には、津田氏を蹴《け》って彼が新幹事として登場したのである。私は、東京、大阪から来た生徒が、東北を田舎あつかいにして軽蔑する態度にも賛成できなかったが、しかし、それに対して東北の地元の生徒たちが陰険に何かしめし合せて卑屈な仕返しをしようとする傾向にも承服できないものがあった。殊に私自身が東北人の端《はし》くれであるから、そんな田舎者のひねこびた復讐心を見せつけられた時には、自己嫌悪みたいなものも加えられて、東京、大阪の生徒よりも一層つよく地元の生徒を憎みたい気が起って来るのである。
「殴っちゃいけない。それは、私闘だ。」と津田氏は、私が興奮しはじめたら、急に落ちつき払った態度を示し、「相手は、矢島ひとりではない。田舎っぺいの取巻きがたくさんいる。僕はこの機会に、あいつらの排他的な思想を膺懲《ようちょう》してやろうと思っているのだ。お互いに紳士じゃないか。思想の合戦で行こう。」
「でも、津田さん。私も田舎っぺいですよ。」どんな意味で使ったにせよ、私には、田舎っぺいという言葉は耳に快くなかった。地元の矢島も頗る面白からぬ人物だが、しかし、こんな言葉を使用する東京人の津田氏の心理もあんまり高潔とは言えない、どっちもどっちだ、と思い直してしまった。
「いや、君はべつだ。君は、決して田舎者じゃない。君は、そうだね、」と困ったような顔をして、「或る意味では、むしろ、都会人とでも言いたいのであるが、」といよいよ窮して、「そうだ、君は支那人だ! そうなんだよ、君。」
私は、あっけにとられた。
「君は、だから、同じ東北人の矢島たちからも敬遠されているのだ。」と津田氏は、いかにも、もっともらしい口調で、「つまり君の現在の立場は、周さんと同一なのだ。僕は決してそうは思わないが、君の顔が支那人に似ているというのがクラスの定評なの
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