日が暮れてから、豆麦の畑の間を通る河を篷船《ほうせん》に乗って出掛けるのだが、大人を交えず大勢の子供たちだけの見物で、船もその中で比較的大きい子供が順番に漕《こ》ぐのである。月光が河の靄《もや》に溶けて朦朧《もうろう》として、青黒い連山は躍《おど》り上った獣の背のように見え、遠くに漁火《いさりび》がきらめいているかと思うとまたどこからともなく横笛の音が哀れに聞える。舞台は河沿いの空地に立っていて、周さんたちは船を河にとどめ、その船の中にいたままで、幻のような五彩の小さい舞台面を眺めるのである。舞台では、長髯《ちょうぜん》の豪傑が四つの金襴《きんらん》の旗を背中にさして長槍《ちょうそう》を振りまわし、また、半裸体の男が幾人もそろって一斉にとんぼ返りを打ったり、小旦《わかおやま》が出て来て何か甲高《かんだか》い声で歌うかと思うと、赤い薄絹を身にまとった道化役が、舞台の柱にしばられて胡麻塩髯《ごましおひげ》の老人に鞭《むち》でひっぱたかれたりするのだ。やがて船は帰途についても、月はまだ落ちていず、河はいよいよ明るく、振り返って見ると舞台はやはり赤い燈火の下でマッチ箱くらいの大きさで何やらさかんに騒いでいる。
「月のいい夜には、時々それを思い出すのです。これがまあ、僕の唯一の風流な追憶でしょう。僕のような俗人でも、月光を浴びると、少しは sentimental になるようです。」
私はその翌《あく》る日から、ほとんど毎日かかさず学校に出る事にした。周さんと逢っていろいろ話をしたいばかりに、そんな感心な心掛けになったのである。本当に、私のようなのんき坊主が、津田氏の予言に反して、落第もせずどうやら学校を卒業する事が出来たのも、考えてみると、全く周さんのおかげであった。いや、周さんと、もうひとり。藤野先生に対する私の思慕の情が、私自身を奮起させて落第生の不名誉から救ってくれたと言ってよいように思われる。
その月光の夜から四、五日経って、何でも仙台に初雪が降った日だったと覚えている。私は学校の帰りに周さんを私の下宿に引っぱって来て、こたつにあたり、まんじゅうを食べながらいろいろ話をして、そのうちに周さんは、妙な笑いを顔に浮べて、周さんの鞄《かばん》からノオトを一冊取り出して私のほうにのべて寄こした。見ると、藤野先生の解剖学のノオトである。
「ひらいてごらん。」周さんは笑いながら言う。
私はひらいて、眼を瞠《みは》った。どのペエジも、ほとんど真赤なくらい、こまかく朱筆がいれられてある。
「ひどく直されていますね。誰が直したの?」
「藤野先生。」
はっと思った。あの日、藤野先生が、ひとりごとのようにしておっしゃった「不言実行」の意味がわかったような気がした。
「いつから?」
「ずっと前から。もう、講義のはじまった時から。」
周さんは、さらにくわしく説明して、藤野先生が、あの最初の解剖学の発達に就いて講義をなされて、それから一週間ほど経って、たしか土曜日だった、先生の助手が周さんを呼びに来たので、研究室へ行ってみると、先生はれいの人骨のむれに取りかこまれ、にこにこ笑いながら、
「君は、私の講義が筆記できますか?」と尋ねる。
「ええ、どうにか出来るつもりです。」
「どうだかな? ノオトを持って来て見せなさい。」
周さんがノオトを持って行くと、先生はそれを預って、二、三日経ってから、かえして下さって、そうして、
「これから、一週間毎にノオトを持っておいで。」とおっしゃる。
周さんは先生から返されたノオトをあけてみて、びっくりした。ノオトは始めから終りまで全部、朱筆が加えられ、たくさんの書落しの箇所が綺麗《きれい》に埋められているばかりか、文法の誤りまで、いちいちこまかく訂正せられているではないか。
「それから、もう、毎週、それが続いているのです。」
周さんと私とは、しばらく顔を見合せて黙っていた。勉強しよう。藤野先生の講義には、どんな事があっても出席しよう。このように誰にも知られず人生の片隅においてひそかに不言実行せられている小善こそ、この世のまことの宝玉ではなかろうかと思った。このささやかな小事件が、単なる傍観者でしかない私をさえ感奮させ、いままでの怠惰《たいだ》な烏《からす》も、それからはせっせと学校へ通うようになったし、おかげで無事に医師の免状をもらうことも出来て、まあどうやら、ただいまこうして父祖の業を継いでいられるようになったと言ってよいのである。
ノオトの訂正は、それから後も決して絶える事なく藤野先生みずからの手で黙々と励行せられていたようであったが、私たちが二学年になった秋に、このノオトのため、あまり愉快でない事件が起った。しかし、それは後の話で、とにかく、この明治三十七年の冬から翌年の春にかけて、私にとっては、いろいろな意味で最も張り合いのある時期であった。日本においても、いよいよ旅順《りょじゅん》総攻撃を開始し、国内も極度に緊張して、私たち学生も、正貨流出防止のため、羊毛の服は廃して綿服にしようとか、金縁眼鏡の膺懲《ようちょう》とか、或《ある》いは敵前生活と称して一種の我慢会を開催したり、未明の雪中行軍もしばしば挙行せられ、意気ますますさかんに、いまはただ旅順陥落を、一様にしびれを切らして待っていた。
ついに、明治三十八年、元旦、旅順は落ちた。二日、旅順陥落公報着したりの号外を手にして仙台市民は、湧《わ》きかえった。勝った。もう、これで勝った。お正月のおめでとうだか、戦勝のおめでとうだか、わけがわからず、ただもう矢鱈《やたら》におめでとう、おめでとう、と言い、ふだんあまり親しくしていない人の家にまでのこのこ出掛けて行ってお酒を死ぬほどたくさん飲み、四日の夜は青葉神社境内において大|篝火《かがりび》を焚《た》き、五日は仙台市の祝勝日で、この朝、十時、愛宕山《あたごやま》に於いて祝砲一発打揚げたのを合図に、全市の工場の汽笛は唸《うな》り、市内各駐在所の警鐘および社寺|備附《そなえつ》けの梵鐘《ぼんしょう》、鉦太鼓《かねたいこ》、何でもかでも破裂せんばかりに乱打し、同時に市民は戸外に躍り出で、金盥《かなだらい》、ブリキ鑵《かん》、太鼓など思い思いに打鳴らして、さて一斉に万歳を叫び、全市鳴動の大壮観を呈し、さらにその夜は各学校|聯合《れんごう》の提燈《ちょうちん》行列があり、私たちは提燈一箇と蝋燭《ろうそく》三本を支給され、万歳、万歳と連呼しながら仙台市中を練り歩いた。異国の周さんも、れいの津田氏に引張り出されたらしく、にこにこしながら津田氏と並んで提燈をさげて歩いている。私と津田氏とは、不和というわけではないけれども、どうも、あれ以来しっくり行かなくて、教室で顔を合せても、お互い軽く会釈《えしゃく》するくらいで、打解けた話をした事はいちども無かった。それが、その夜に限ってごく自然に私のほうから津田氏に、
「津田さん、おめでとう。」と言葉をかけた。
「やあ、おめでとう。」と津田氏も上機嫌《じょうきげん》である。
「いろいろ、失礼しています。」と私は、すかさず平素の御無音をついでに謝した。
「いや、僕こそ。」と外交官の甥《おい》はさすがに円転|滑脱《かつだつ》である。「あの晩は酔いすぎて、僕はたいへんいけませんでした。あとで、僕は藤野先生に叱られました。」
「何の事ですか?」と周さんは口をはさんだ。
「いや、津田さんから鳥のたたきをごちそうになって、飲んだのです。」と私は、あいまいに言いまぎらした。
「それだけじゃないんだ。」と津田氏は言いかけて、ふいと語調をかえ、「君はまだ周さんに何も言ってないの?」
ええ、と私は小さく首肯《うなず》き、何も言うな、と眼で津田氏にせわしなく合図した。
「そうかあ。」と津田氏は大声を発し、「君はいい奴だ。藤野先生に告げ口したのはけしからんが、しかし、あれは僕が悪かったんだ。よし、飲もう。今夜は三人で、また鳥のたたきを食べよう。万歳。」津田氏は既にいくらか酔っているようであった。
戦いにはどうしたって、絶対に、勝たなければならぬものだとその夜つくづく思った。勝てばいいんだ。津田氏の所謂《いわゆる》外交上の深慮も何も一ぺんに吹飛んでしまうのだ。津田氏だって、憂国の好青年だった事においては変りは無いのだ。彼がその夜、周さんに聞えないように小声で私に白状したところに拠《よ》ると、彼は二箇月前、バルチック艦隊出発近きにありの報を聞き、旅順陥落せざるうちにその大艦隊が日本に押寄せて来たらどうしようと心配のあまり、人皆うたがわしく見えて来て、周さんがひとりでこっそり松島へ出掛けて行ったのも、或《あるい》は露国《ろこく》のスパイとして、かの松島湾の深浅を測量し、もって露国の艦隊をここに導き入れ、仙台市の全滅をたくらんでいるのではなかろうかと、何が何やら、旅順が落ちないばかりのむしゃくしゃの八つ当りであの夜、私に説教したのだという。私はそれを聞いて内心大いに呆《あき》れたが、しかし、もういいのだ。勝ったから、いいのだ。戦いは、これだから、絶対に勝たなければならぬ。戦況ひとたび不利になれば、朋友相信じる事さえ困難になるのだ。民衆の心裡《しんり》というものは元来そんなに頼りないものなのだ。小にしては国民の日常倫理の動揺を防ぎ、大にしては藤野先生の所謂「東洋本来の道義」発揚のためにも、戦いには、どんな犠牲を払っても、必ず勝たなければならぬ、とその夜しみじみ思った。
旅順の要塞《ようさい》が陥落すると、日本の国内は、もったいないたとえだが、天の岩戸がひらいたように一段とまぶしいくらい明くなり、そのお正月の歌御会始の御製は、
富士の根ににほふ朝日も霞《かす》むまで
としたつ空ののどかなるかな
まさに日本は、この時、確実に露西亜《ロシア》を打破ったのだといってよい。このお正月の末あたりから、帝政露西亜に内乱が勃発《ぼっぱつ》し、敗色いよいよ濃厚になり、日本軍は破竹の勢い、つづく三月十日、五月二十七日、日本国民として忘るべからざる陸海軍の決定的大勝利となり、国威四方に輝煥《きかん》し、国民の意気また沖天《ちゅうてん》の概があったが、この日本の大勝利は、異国人の周さんにまで、私たちの想像の及ばぬほど強い衝撃を与えていたのである。周さんが日本に来て、横浜新橋間の窓外の風景が、世界のどこにも無い独自の清潔な秩序をもっている事を直感し、そうして、東京の女のひとたちが赤い襷《たすき》をかけ白く新しい手拭《てぬぐい》をあねさまかぶりにして、朝日の射している障子《しょうじ》にはたきをかけている可憐《かれん》な甲斐々々《かいがい》しい姿こそ日本の象徴ではあるまいかと考え、日本はこの戦争に必ず勝つ、このように国内に活気|横溢《おういつ》して負けるはずはない、とあの松島の旅館においても予言していたのだが、その勝利が、おそらくは周さんのかねて考えていたよりさらに数層倍も素晴らしく眼前に展開されるのを見て、いまさらながら日本の不思議な力に瞠若《どうじゃく》驚歎したように私には見受けられた。周さんは、その旅順陥落を境にして、再び日本研究をし直した様子であった。周さんの話に拠れば、その頃の支那の青年が日本に学問しに来るのは、決して日本固有の国風、文明を慕っているからではなく、すぐ近くで安直に西洋文明を学びとる事が出来るという一時の便宜主義から日本を選ぶに過ぎないのだという事であったが、周さんも、やはりはじめはそんなつもりで日本へ来て、すぐにこの国の意外な緊張を発見して、ここには独自な何かがあると予感したものの、さて、このように堂々と当時の世界の一等国露西亜を屈伏せしめた事実を目撃しては、何物かがあるくらいでは済まされなくなったらしく、こんどは漢訳の明治維新史だけではなく、直接に日本文の歴史の本をいろいろ買い集めて読みふけり、いままでの自分の日本観に重大な訂正を加えるに到ったようである。
「日本には国体の実力というものがある。」と周さんは溜息《ためいき》をついて言っていた。
これはいかにも平凡な発見のよう
前へ
次へ
全20ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング