るい電燈の照明の下に名題役者《なだいやくしゃ》の歌舞伎が常設的に興行せられ、それでも入場料は五銭とか八銭とかの謂わば大衆的な低廉《ていれん》のもので手軽に見られる立見席もあり、私たち貧書生はたいていこの立見席の定連《じょうれん》で、これはしかし、まあ小芝居の方で、ほかに大劇場では仙台座というのがあり、この方は千四、五百人もの観客を楽に収容できるほどの堂々たるもので、正月やお盆などはここで一流中の一流の人気役者ばかりの大芝居が上演せられ、入場料も高く、また盆正月の他にもここに浪花節《なにわぶし》とか大魔術とか活動写真とか、たえず何かしらの興行物があり、この他、開気館という小ぢんまりした気持のいい寄席が東一番丁にあって、いつでも義太夫《ぎだゆう》やら落語やらがかかっていて、東京の有名な芸人は殆《ほとん》どここで一席お伺いしたもので、竹本|呂昇《ろしょう》の義太夫なども私たちはここで聞いて大いにたんのうした。そのころも、芭蕉《ばしょう》の辻《つじ》が仙台の中心という事になっていて、なかなかハイカラな洋風の建築物が立ちならんではいたが、でも、繁華な点では、すでに東一番丁に到底かなわなくなっていた。東一番丁の夜のにぎわいは格別で、興行物は午後の十一時頃までやっていて、松島座前にはいつも幟《のぼり》が威勢よくはためいて、四谷怪談《よつやかいだん》だの皿屋敷《さらやしき》だの思わず足をとどめさすほど毒々しい胡粉《ごふん》絵具の絵看板が五、六枚かかげられ、弁や、とかいう街の人気男の木戸口でわめく客呼びの声も、私たちにはなつかしい思い出の一つになっているが、この界隈《かいわい》には飲み屋、蕎麦《そば》屋、天ぷら屋、軍鶏《しゃも》料理屋、蒲焼《かばやき》、お汁粉《しるこ》、焼芋、すし、野猪《のじし》、鹿《しか》の肉、牛なべ、牛乳屋、コーヒー屋、東京にあって仙台に無いものは市街鉄道くらいのもので、大きい勧工場sかんこうば》もあれば、パン屋あり、洋菓子屋あり、洋品店、楽器店、書籍雑誌店、ドライクリーニング、和洋酒|缶詰《かんづめ》、外国煙草屋、ブラザア軒という洋食屋もあったし、蓄音機《ちくおんき》を聞かせる店やら写真屋やら玉突屋やら、植木の夜店もひらかれていて、軒並に明るい飾り電燈がついて、夜を知らぬ花の街の趣《おもむき》を呈し、子供などはすぐ迷子《まいご》になりそうな雑沓《ざっとう》で、それまで東京の小川町も浅草も銀座も見た事の無い田舎者の私なんかを驚嘆させるには充分だったのである。いったいここの藩祖|政宗《まさむね》公というのは、ちょっとハイカラなところのあった人物らしく、慶長十八年すでに支倉《はせくら》六右衛門常長を特使としてローマに派遣して他藩の保守|退嬰派《たいえいは》を瞠若《どうじゃく》させたりなどして、その余波が明治維新後にも流れ伝っているのか、キリスト教の教会が、仙台市内の随処にあり、仙台気風を論ずるには、このキリスト教を必ず考慮に入れなければならぬと思われるほどであって、キリスト教の匂いの強い学校も多く、明治文人の岩野|泡鳴《ほうめい》というひとも若い頃ここの東北学院に学んで聖書教育を受けたようだし、また島崎|藤村《とうそん》も明治二十九年、この東北学院に作文と英語の先生として東京から赴任して来たという事も聞いている。藤村の仙台時代の詩は、私も学生時代に、柄《がら》でもなく愛誦《あいしょう》したものだが、その詩風には、やはりキリスト教の影響がいくらかあったように記憶している。このように当時の仙台は、地理的には日本の中心から遠く離れているように見えながらも、その所謂《いわゆる》文明開化の点においては、早くから中央の進展と敏感に触れ合っていたわけで、私は仙台市街の繁華にたまげ、また街の到るところ学校、病院、教会など開化の設備のおびただしいのに一驚し、それからもう一つ、仙台は江戸時代の評定所《ひょうじょうしょ》、また御維新後の上等裁判所、のちの控訴院と、裁判の都としての伝統があるせいか、弁護士の看板を掲げた家のやけに多いのに眼をみはり、毎日うろうろ赤毛布《あかゲット》の田舎者よろしくの体で歩きまわっていたのも、無理がなかった、とまあ、往時《おうじ》の自分をいたわって置きたい。
 私はそのように市内の文明開化に興奮する一方、また殊勝らしい顔をして仙台周辺の名所旧蹟をもさぐって歩いた。瑞鳳殿にお参りして戦勝祈願をしたついでに、向山《むかいやま》に登り仙台全市街を俯瞰《ふかん》しては、わけのわからぬ溜息《ためいき》が出て、また右方はるかに煙波|渺茫《びょうぼう》たる太平洋を望見しては、大声で何か叫びたくなり、若い頃には、もう何を見ても聞いても、それが自分にとって重大な事のように思われてわくわくするもののようであるが、かの有名な青葉城の跡を訪ねて、今も昔のままに厳然と残っている城門を矢鱈《やたら》に出たり入ったりしながら、われもし政宗公の時代に生れていたならば、と埒《らち》も無い空想にふけり、また、俗に先代萩《せんだいはぎ》の政岡《まさおか》の墓と言われている三沢初子の墓や、支倉六右衛門の墓、また、金も無けれど死にたくも無しの六無斎《ろくむさい》林子平《はやししへい》の墓などを訪れて、何か深い意味ありげに一礼して、その他、榴《つつじ》ヶ岡《おか》、桜ヶ岡、三滝温泉、宮城野原《みやぎのはら》、多賀城址《たがじょうし》など、次第に遠方にまで探索の足をのばし、とうとう或《あ》る二日つづきの休みを利用して、日本三景の一、松島遊覧を志した。
 お昼すこし過ぎに仙台を発足して、四里ほどの道をぶらぶら歩いて塩釜《しおがま》に着いた頃には、日も既に西に傾き、秋風が急につめたく身にしみて、へんに心細くなって来たので、松島見物は明日という事にして、その日は塩釜神社に参拝しただけで、塩釜の古びた安宿に泊り、翌《あく》る朝、早く起きて松島遊覧の船に乗ったのであるが、その船には五、六人の合客があって、中にひとり私と同様に仙台医専の制服制帽の生徒がいた。鼻下に薄髭《うすひげ》を生《は》やし、私より少し年上のように見えたが、でも、緑線を附けた医専の角帽はまだ新しく、帽子の徽章《きしょう》もまぶしいくらいにきらきら光って、たしかに今秋の新入生に違いなかった。何だか一、二度、教室でその顔を見かけたような気もした。けれども、そのとしの新入生は日本全国から集って百五十人、いや、もっと多かったようで、東京組とか、大阪組とか、出生の国を同じくする新入生たちはそれぞれ群を作って、学校にいても、また仙台のまちへ出ても、一緒に楽しそうに騒ぎまわっていたものの、田舎の私の中学から医専に来たのは私ひとりで、それに私は、生来口が重い上に、ご存じの如くひどい田舎訛《いなかなま》りなので、その新入生たちにまじって、冗談を言い合う勇気もなく、かえってひがんで、孤立を気取り、下宿も学校から遠く離れた県庁の裏に定めて、同級生の誰とも親しく口をきかなかったのは勿論《もちろん》、その素人《しろうと》下宿の家族の人たちとも、滅多《めった》に打ち解けた話をする事は無かった。それは仙台の人たちだって、かなり東北訛りは強かったが、私の田舎の言葉ときたら、それどころでは無く、また、私も無理に東京言葉を使おうとしたら、使えないわけはないのだが、どうせ田舎出だという事を知られているのに、きざにいい言葉を使ってみせるのも、気恥かしいのである。これは田舎者だけにわかる心理で、田舎言葉を丸出しにしても笑われるし、また努力して標準語を使っても、さらに大いに笑われるような気がして、結局、むっつりの寡黙居士《かもくこじ》になるより他は無いのである。私がその頃、他の新入生と疎遠だったのは、そのような言葉の事情にも依《よ》るが、また一つには、私にもやはり医専の生徒であるという事の誇りがあって、烏《からす》もただ一羽枯枝にとまっているとその姿もまんざらで無く、漆黒《しっこく》の翼《つばさ》も輝いて見事に見えるけれども、数十羽かたまって騒「でいると、ゴミのようにつまらなく見えるのと同様に、医専の生徒も、むれをなして街を大声で笑いながら歩いていると角帽の権威も何もあったものでなく、まことに愚かしく不潔に見えるので、私はあくまでも高級学徒としての誇りを堅持したい心から、彼等を避けていたというような訳もあったのである、と言えば、ていさいもいいが、もう一つ白状すると、私はその入学当初、ただ矢鱈に興奮して仙台の街を歩きまわってばかりいて、実は、学校の授業にも時々、無断欠席をしていたのである。これでは、他の新入生たちと疎遠になるのも当り前の話で、その松島遊覧の船でひとりの新入生と顔を合せた時も、私は、ひやりとして、何だかひどく工合《ぐあい》が悪かった。私は船客の中の唯一の高潔な学徒として、大いに気取って、松島見物をしたかったのに、もうひとり、私と同じ制服制帽の生徒がいたのではなんにもならぬ。しかもその生徒は都会人らしく、あかぬけがしていて、どう見ても私より秀才らしいのだから実にしょげざるを得なかったのだ。毎日まじめに登校して勉強している生徒にちがいない。涼しく澄んだ眼で私のほうを、ちらと見たので、私は卑屈なあいそ笑いをして会釈《えしゃく》した。どうも、いかぬ。烏が二羽、船ばたにとまって、そうして一羽は窶《やつ》れて翼の色艶《いろつや》も悪いと来ているんだから、その引立たぬ事おびただしい。私はみじめな思いで、その秀才らしい生徒からずっと離れた片隅に小さくなって坐って、そうしてなるべく、その生徒のほうを見ないように努めた。きっと東京者にちがいない。早口の江戸っ子弁でぺらぺら話しかけられてはたまらない。私は顔をきつくそむけて、もっぱら松島の風光を愛《め》で楽しむような振りをしていたが、どうも、その秀才らしい生徒が気になって、芭蕉の所謂、「島々の数を尽して欹《そばだ》つものは天を指《ゆびさ》し、伏すものは波にはらばう、あるは二重《ふたえ》にかさなり三重《みえ》にたたみて、左にわかれ、右に連《つらな》る。負えるあり、抱《いだ》けるあり、児孫《じそん》を愛するが如し。松のみどり濃《こま》やかに、枝葉《しよう》汐風《しおかぜ》に吹きたわめて、屈曲おのずからためたる如し。そのけしき※[#「穴かんむり/目」、第3水準1−89−50]然《ようぜん》として美人の顔《かんばせ》を粧《よそお》う。ちはやぶる神の昔、大山《おおやま》つみのなせるわざにや。造化《ぞうか》の天工《てんこう》、いずれの人か筆を揮《ふる》い詞《ことば》を尽さん、云々《うんぬん》。」の絶景も、甚《はなは》だ落ちつかぬ心地《ここち》で眺め、船が雄島の岸に着くやいなや誰よりも先に砂浜に飛び降り、逃げるが如くすたこら山の方へ歩いて行って、やっとひとりになってほっとした。寛政年間、東西遊記を上梓《じょうし》して著名な医師、橘南谿《たちばななんけい》の松島紀行に拠《よ》れば、「松島にあそぶ人は是非ともに舟行すべき事なり、また富山に登るべき事なり」とあるので、その頃すでに松島へ到るには汽車の便などもあったのに、わざわざ塩釜まで歩いて行って、そこから遊覧船に乗り込んでみたのであるが、私とそっくりの新しい制服制帽の、しかも私より遥《はる》かに優秀らしい生徒が乗り合わせていたので、にわかに興が醒《さ》めて、洞庭《どうてい》西湖を恥じざる扶桑《ふそう》第一の好風も、何が何やら、ただ海と島と松と、それだけのものの如く思われて、甚だ残念、とにかくこれから富山に登って、ひとり心ゆくまで松島の全景を鳥瞰《ちょうかん》し、舟行の失敗を埋合わせようと考え、山に向っていそいだものの、さて、富山というのはどこか、かいもく見当がつかぬ。ままよ、何でも、高い所へ登って松島湾全体を眺め渡す事が出来たらいいのだ、それで義理がすむのだ、といまは風流の気持も何も失い、野暮《やぼ》な男の意地で秋草を掻《か》きわけ、まるで出鱈目《でたらめ》に細い山道を走るようにして登って行った。疲れて来ると立ちどまり振りかえって松島湾を見て、いやまだ足らぬ、これ
前へ 次へ
全20ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング