の上と言っていいのかも知れない。学校の講義はどれもこれも新鮮で、自分の永年の志望も、ここへ来て、やっとかなえてもらえたような気がしている。中でも、解剖学の藤野先生の講義は面白い。別に変ったところも無い講義だが、それでも、やはりあの先生の人格が反映されているのか、自分ばかりでなく、他の生徒もみな楽しそうに聴講している。前学年に及第できなくて原級に留《とどま》った所謂|古狸《ふるだぬき》の連中の話に拠れば、藤野先生は服装に無頓着《むとんじゃく》で、ネクタイをするのを忘れて学校へ出て来られる事がしばしばあり、また冬は、膝小僧《ひざこぞう》をかくす事が出来ないくらいの短い古外套《ふるがいとう》を着て、いつも寒そうにぶるぶる震えて、いつか汽車に乗られた時、車掌は先生を胡散《うさん》くさい者と見てとったらしく、だしぬけに車内の全乗客に向い、このごろ汽車の中に掏摸《すり》が出没していますから皆さま御用心なさい、と叫んだとか、その他、まだまだ面白い逸事があるらしく、お心も高潔のようだし、講義も熱心で含蓄が深いのに、一面に於いてそんな脱俗の風格をお持ちのせいか、クラスの所謂古狸連は、この先生に狎《な》れ、くみし易しとしている様子で、この先生の講義の時には、何でも無い事にでもわっと笑声を挙げて囃《はや》すので教室がたいへん賑《にぎ》やかになるのである。最初の授業の時も、この先生が、やや猫背になって大小さまざまの本を両わきにかかえて教室にあらわれ、そのたくさんの本を教壇の机の上に高く積み上げてから、ひどくゆっくりした語調で、わたくしは、藤野厳九郎と申すもので、と言いかけたら、れいの古狸たちが、どっと笑い出したので、自分は先生を何だか気の毒に思ったくらいである。しかし、この最初の講義は、日本における解剖学の発達の歴史であって、その時、持って来られた大小さまざまの本は、昔から現代に到るまでの日本人の解剖学に関する著作であった。杉田玄白の「解体新書」や「蘭学事始《らんがくことはじめ》」などもその中にあった。そうして、玄白たちが小塚原《こづかっぱら》の刑場で罪人の屍《しかばね》を腑分《ふわけ》する時の緊張などを、先生は特徴のあるゆっくりした語調で説いて聞かせたが、あの最初の講義は、自分の前途を暗示し激励してくれているようで、実に深い感銘を受けた。もう今では自分の進路は、一言で言える。支那の杉田玄白になる事だ。それだけだ。支那の杉田玄白になって、支那の維新の狼煙《のろし》を挙げるのだ。
あの松島の旅館で、当時二十四歳の留学生、周さんは、だいたい以上のような事情を私に打明けて聞かせてくれたのであるが、もちろんその夜、周さんがひとりでこんなに長々と清国の現状やら自身の生立《おいた》ちやらを順序を追って講演したというわけではなく、お酒を少し飲んだりして私と夜明け近くまで語り合ったさまざまの事柄を綴《つづ》り合せ、それにまた私が後に得た知識をも多少補足して、以上の如くまとめ上げてみたのである。とにかく、私はあの夜、周さんの打明け話を聞いて、かなり感動した。私みたいに、ただ、親が医者だから、その総領息子《そうりょうむすこ》の自分もまた医者、というようないい加減な気持で医専に入学したのではなく、さすがに、はるばる海を越えてやって来た人には、やっぱりそれだけの、深い事情と、すぐれた決意とが秘められているものだと唸《うな》るほど感心し、この異国の秀才に対して大いに尊敬をあらたにし、何とかしてこの人の高邁《こうまい》の目的を完遂させてやりたいと、そのくせ何の助力も出来ないくせに、義気さかんに起るを覚えたものである。周さんは、私を、周さんの弟さんに似ていると言っていたし、また、私のほうでは、周さんと逢って話をしている時だけは、自分のれいの言葉の訛《なま》りに就《つ》いての苦慮から解放されるという秘密のよろこびがあって、そんな事が二人の親しい友交を成立させたとも考えられるが、しかし、そんなにいちいち理由らしいものを取上げて言うまでも無く、ただ、俗に呼称する「ウマが合った」とかいう小さい奇蹟《きせき》は、国籍を異にしている人の間にもたまたま起り得る現象なのかも知れない。けれども、この日本三景の一の松島海岸で不思議に結ばれた孤独者同士の何の駈引《かけひき》も打算も無い謂《い》わば頗《すこぶ》る鷹揚《おうよう》な交友にも、時々へんな邪魔がはいった。純粋に二人きりの、のんきな交友など、この世に存在をゆるされないものかも知れない。必ず第三者の牽制《けんせい》やら猜疑《さいぎ》やら嘲笑《ちょうしょう》やらが介入するもののようである。その松島の宿で互いに遠慮を忘れ、思う事を語って笑い、翌《あく》る日、一緒に汽車で仙台に帰り、ではまたあした学校で、どうも、いろいろ有難う、いや僕こそ、と意外に楽
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