それゆえ女性に対した時にも女性の言葉で言うのが正しいのでしょう、と答えた。私は、でも、それはキザで、聞いて居られません、と言ったら、周さんは、その「キザ」という言葉に、ひどく感心して、日本の美学は実にきびしい、キザという戒律は、世界のどこにもないであろう、いまの清国の文明は、たいへんキザです、と言った。その夜、私たちは宿で少し酒を飲み、深更《しんこう》まで談笑し、月下の松島を眺める事を忘れてしまったほどであったのである。周さんもあとで私に、日本へ来てあんなにおしゃべりした夜は無いと言っていた。周さんはその夜、自分の生立《おいた》ちやら、希望やら、清国の現状やらを、呆《あき》れるくらいの熱情を以《もっ》て語った。東洋当面の問題は、科学だと何度も繰りかえして言っていた。日本の飛躍も、一群の蘭医に依《よ》って口火を切られたのだと言っていた。一日も早く西洋の科学を消化して列国に拮抗《きっこう》しなければ、支那もまた、いたずらに老大国の自讃に酔いながら、みるみるお隣りの印度《インド》の運命を追うばかりであろう。東洋は古来、精神界においては、西洋と較べものにならぬほど深く見事に完成せられていて、西洋の最もすぐれた哲学者たちが時たま、それをわずかに覬覦《きゆ》しては仰天しているという事も聞いているが、西洋はそんな精神界の貧困を、科学によって補強しようとした。科学の応用は、人間の現実生活の享楽に直接役立つので、この世の生命に対する執着力の旺盛《おうせい》な紅毛人たちの間に於いて異常の進歩をとげ、東洋フ精神界にまで浸透して来た。日本はいち早く科学の暴力を察して、進んで之《これ》を学び取り、以て自国を防衛し、国風を混乱せしめる事なく、之の消化に成功し、東洋における最も聡明な独立国家としての面目を発揮する事が出来た。科学は必ずしも人間最高の徳ではないが、しかし片手に幽玄の思想の玉を載せ、片手に溌剌《はつらつ》たる科学の剣を握っていたならば、列国も之には一指もふれる事が出来ず、世界に冠絶した理想国家となるに違いない。清国政府は、この科学の猛威に対して何のなすところも無く、列国の侵略を受けながらも、大川は細流に汚されずとでもいうような自信を装って敗北を糊塗《こと》し、ひたすら老大国の表面の体裁のみを弥縫《びほう》するに急がしく、西洋文明の本質たる科学を正視し究明する勇気無く、学生には相も変らず八股文《はっこぶん》など所謂《いわゆる》繁文縟礼《はんぶんじょくれい》の学問を奨励して、列国には沐猴而冠《もっこうにしてかんす》の滑稽《こっけい》なる自尊の国とひそかに冷笑される状態に到らしめた。自分は支那を誰にも負けぬくらいに愛している。愛しているから、不満も大きい。いまの清国は、一言で言えば、怠惰だ。わけのわからぬ自負心に酔っている。古い文明の歴史は、何も支那だけが持っているとは限らない。印度はどうだ、埃及《エジプト》はどうだ。そうしてその国の現状はどうだ。支那は慄然《りつぜん》とすべきである。このままでいいという自負心は、支那を必ず自壊に導く。支那には、いま余裕も何も有るはずはないのだ。自惚《うぬぼ》れを捨てて、まず西洋の科学の暴力と戦わなければならぬ。これと戦うには、彼の虎穴に敢然と飛び込んで、一日も早くその粋を学び取るより他は無い。日本の徳川幕府の鎖国政策に向って最初に警鐘を乱打したのは、蘭学という西洋科学であったという話を聞いている。自分は支那の杉田玄白になりたい。科学の中でも自分は、西洋医学に最も心をひかれている。なぜ西洋科学の中で、自分がこのように特に医学に注目するようになったか、その原因の一つは、自分の幼少のころの悲しい経験の中にもひそんでいる。自分の家には昔から多少の田地も有り、まあ相当の家庭と人にも言われていたのだが、自分が十三の時、祖父が或るややこしい問題に首を突込んで獄につながれ、一家はそのため、にわかに親戚《しんせき》、近隣の迫害を受けるようになり、その上、父が重病で寝込んでしまったので、自分たちの家族は忽《たちま》ち暮しに窮し、自分は弟と共に親戚の家に預けられた。けれども自分はその家の者たちから、乞食と言われて憤然、自分の生家に帰ったが、それから三年間、自分は毎日のように、質屋と薬屋に通わなければならなかった。父の病気がいっこうに快《よ》くならなかったのだ。薬屋の店台は自分と同じくらいの高さで、質屋の店台はさらにその倍くらいの高さであった。自分は質屋の高い台の上に、着物や首飾を差し上げ、なんだこんなガラクタ、と質屋の番頭に嘲弄《ちょうろう》されながら、わずかの銭を受けとり、すぐその足で薬屋に走るのだ。家に帰ると、また別の事でいそがしかった。父のかかりつけの医者は、その地方で名医と言われている人であったが、その処方は、甚《はなは》だ奇怪
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