まだ何も植ゑてゐませんから、その半分もお貸し致しませう。ご自由にお使ひ下さい、なほ断つて置きますが、私は、菊を作つて売らう等といふ下心のある人たちとは、おつき合ひ致しかねますから、けふからは、他人と思つていただきます。」
「承知いたしました。」三郎は、大いに閉口の様子である。「お言葉に甘えて、それでは畑も半分だけお借りしませう。なほ、あの納屋の裏に、菊の屑の苗が、たくさん捨てられて在りますけれど、あれも頂戴いたします。」
「そんなつまらぬ事を、いちいちおつしやらなくてもよろしい。」
不和のままで、わかれた。その翌る日、才之助は、さつさと畑を二つにわけて、その境界に高い生垣を作り、お互ひに見えないやうにしてしまつた。両家は、絶交したのである、
やがて、秋たけなはの頃、才之助の畑の菊も、すべて美事な花を開いたが、どうも、お隣りの畑のはうが気になつて、或る日、そつと覗いてみると、驚いた。いままで見た事もないやうな大きな花が畑一めんに、咲き揃つてゐる。納屋も小綺麗に修理されてゐて、さも居心地よささうなしやれた構への家になつてゐる。才之助は、心中おだやかでなかつた。菊の花は、あきらかに才之助の負けである。しかも瀟洒な家さへ建ててゐる。きつと菊を売つて、大いにお金をまうけたのにちがひない。けしからぬ。こらしめてやらうと、義憤やら嫉妬やら、さまざまの感情が怪しくごたごた胸をゆすぶり、ゐたたまらなくなつて、つひに生垣を乗り越え、お隣りの庭に闖入してしまつたのである。花一つ一つを、見れば見るほど、よく出来てゐる。花弁の肉も厚く、力強く伸び、精一ぱいに開いて、花輪は、ぷりぷり震へてゐるほどで、いのち限りに咲いてゐるのだ。なほ注意して見ると、それは皆、自分が納屋の裏に捨てた、あの屑の苗から咲いた花なのである。
「ううむ。」と思はず唸つてしまつた時、
「いらつしやい。お待ちしてゐました。」と背後から声をかけられ、へどもどして振り向くと、陶本の弟が、にこにこ笑ひながら立つてゐる。
「負けました。」と才之助は、やけくそに似た大きい声で言つた。「私は潔よい男ですからね、負けた時には、はつきり、負けたと申し上げます。どうか、君の弟子にして下さい。これまでの行きがかりは、さらりと、」と言つて自分の胸を撫で下ろして見せて、「さらりと水に流す事に致しませう。けれども、――」
「いや、そのさきは、おつしやらないで下さい。私は、あなたのやうな潔癖の精神は持つてゐませんので、御推察のとほり、菊を少しづつ売つて居ります。けれども、どうか軽蔑なさらないで下さい。姉も、いつもその事を気にかけて居ります。私たちだつて、精一ぱいなのです。私たちには、あなたのやうに、父祖の遺産といふものもございませんし、ほんたうに、菊でも売らなければ、のたれ死にするばかりなのです。どうか、お見逃し下さつて、これを機会に、またおつき合ひ願ひます。」と言つて、うなだれてゐる三郎の姿を見ると、才之助も哀れになつて来て、
「いや、いや、さう言はれると痛み入ります。私だつて、何も、君たち姉弟《きやうだい》を嫌つてゐるわけではないのです。殊に、これからは君を菊の先生として、いろいろ教へてもらはうと思つてゐるのですから、どうか、私こそ、よろしくお願ひ致します。」と神妙に言つて一礼した。
一たんは和解成つて、間の生垣も取り払はれ、両家の往来がはじまつたのであるが、どうも、時々は議論が起る。
「君の菊の花の作り方には、なんだか秘密があるやうだ。」
「そんな事は、ありません。私は、これまで全部あなたにお伝へした筈です。あとは、指先の神秘です。それは、私にとつても無意識なもので、なんと言つてお伝へしたらいいのか、私にもわかりません。つまり、才能といふものなのかも知れません。」
「それぢや、君は天才で、私は鈍才だといふわけだね。いくら教へても、だめだといふわけだね。」
「そんな事を、おつしやつては困ります。或いは、私の菊作りは、いのちがけで、之を美事に作つて売らなければ、ごはんをいただく事が出来ないのだといふ、そんなせつぱつまつた気持で作るから、花も大きくなるのではないかとも思はれます。あなたのやうに、趣味でお作りになる方は、やはり好奇心や、自負心の満足だけなのですから。」
「さうですか。私にも菊を売れと言ふのですね。君は、私にそんな卑しい事をすすめて、恥づかしくないかね。」
「いいえ、そんな事を言つてゐるのではありません。あなたは、どうして、さうなんでせう。」
どうも、しつくり行かなかつた。陶本の家は、いよいよ富んで行くばかりの様であつた。その翌る年の正月には、才之助に一言の相談もせず、大工を呼んでいきなり大邸宅の建築に取りかかつた。その邸宅の一端は、才之助の茅屋の一端に、ほとんど密着するくらゐであつた、才之助は、再び隣家と絶交しようと思ひはじめた。或る日、三郎が真面目な顔をしてやつて来て、
「姉さんと結婚して下さい。」と思ひつめたやうな口調で言つた。
才之助は、頬を赤らめた。はじめ、ちらと見た時から、あの柔かな清らかさを忘れかねてゐたのである。けれども、やはり男の意地で、へんな議論をはじめてしまつた。
「私には結納のお金も無いし、妻を迎へる資格がありません。君たちは、このごろ、お金持ちになつたやうだからねえ。」と、かへつて厭味《いやみ》を言つた。
「いいえ、みんな、あなたのものです。姉は、はじめから、そのつもりでゐたのです。結納なんてものも要りません。あなたが、このまま、私の家へおいで下されたら、それでいいのです。姉は、あなたを、お慕ひ申して居ります。」
才之助は、狼狽を押し隠して、
「いや、そんな事は、どうでもいい。私には私の家があります。入《い》り婿《むこ》は、まつぴらです。私も正直に言ひますが、君の姉さんを嫌ひではありません。はははは、」と豪傑らしく笑つて見せて、「けれども、入《い》り婿《むこ》は、男子として最も恥づべき事です。お断り致します。帰つて姉さんに、さう言ひなさい。清貧が、いやでなかつたら、いらつしやい、と。」
喧嘩わかれになつてしまつた。けれどもその夜、才之助の汚い寝所に、ひらりと風に乗つて白い柔い蝶が忍び入つた。
「清貧は、いやぢやないわ。」と言つて、くつくつ笑つた。娘の名は、黄英《きえ》といつた。
しばらくは二人で、茅屋に住んでゐたが、黄英は、やがてその茅屋の壁に穴をあけ、それに密着してゐる陶本の家の壁にも同様に穴を穿ち、自由に両家が交通できるやうにしてしまつた。さうして自分の家から、あれこれと必要な道具を、才之助の家に持ち運んで来るのである。才之助には、それが気になつてならなかつた。
「困るね。この火鉢だつて、この花瓶だつて、みんなお前の家のものぢやないか。女房の持ち物を、亭主が使ふのは、実に面目ない事なのだ。こんなものは、持つて来ないやうにしてくれ。」と言つて叱りつけても、黄英は笑つてゐるばかりで、やはり、ちよいちよい持ち運んで来る。清廉の士を以て任じてゐる才之助は、大きい帳面を作り、左の品々一時お預り申候と書いて、黄英の運んで来る道具をいちいち記入して置く事にした。けれども今は、身のまはりの物すべて、黄英の道具である。いちいち記入して行くならば、帳面が何冊あつても足りないくらゐであつた。才之助は絶望した。
「お前のおかげで、私もたうとう髪結ひの亭主みたいになつてしまつた。女房のおかげで、家が豊かになるといふ事は男子として最大の不名誉なのだ。私の三十年の清貧も、お前たちの為に滅茶滅茶にされてしまつた。」と或る夜、しみじみ愚痴をこぼした。黄英も、流石に淋しさうな顔になつて、
「私が悪かつたのかも知れません。私は、ただ、あなたの御情にお報いしたくて、いろいろ心をくだいて今まで取計つて来たのですが、あなたが、それほど深く清貧に志して居られるとは存じ寄りませんでした。では、この家の道具も、私の新築の家も、みんなすぐ売り払ふやうにしませう。そのお金を、あなたがお好きなやうに使つてしまつて下さい。」
「ばかな事を言つては、いけない。私ともあらうものが、そんな不浄なお金を受け取ると思ふか。」
「では、どうしたら、いいのでせう。」黄英は、泣声になつて、「三郎だつて、あなたに御恩報じをしようと思つて、毎日、菊作りに精出して、はうばうのお屋敷にせつせと苗をおとどけしてはお金をまうけてゐるのです。どうしたら、いいのでせう。あなたと私たちとは、まるで考へかたが、あべこべなんですもの。」
「わかれるより他は無い。」才之助は、言葉の行きがかりから、更に更に立派な事を言はなければならなくなつて、心にもないつらい宣言をしたのである。「清い者は清く、濁れる者は濁つたままで暮して行くより他は無い。私には、人にかれこれ命令する権利は無い。私がこの家を出て行きませう。あしたから、私はあの庭の隅に小屋を作つて、そこで清貧を楽しみながら寝起きする事に致します。」ばかな事になつてしまつた。けれども男子は一度言ひ出したからには、のつぴきならず、翌る朝さつそく庭の隅に一坪ほどの掛小屋を作つて、そこに引きこもり、寒さに震へながら正座してゐた。けれども、二晩そこで清貧を楽しんでゐたら、どうにも寒くて、たまらなくなつて来た。三晩目には、たうとう我が家の雨戸を軽く叩いたのである。雨戸が細くあいて、黄英の白い笑顔があらはれ、
「あなたの潔癖も、あてになりませんわね。」
才之助は、深く恥ぢた。それからは、ちつとも剛情を言はなくなつた。墨堤の桜が咲きはじめる頃になつて、陶本の家の建築は全く成り、さうして才之助の家と、ぴつたり密着して、もう両家の区別がわからないやうになつた。才之助は、いまはそんな事には、少しも口出しせず、すべて黄英と三郎に任せ、自分は近所の者と将棋ばかりさしてゐた。一日、一家三人、墨堤の桜を見に出かけた。ほどよいところに重箱をひろげ、才之助は持参の酒を飲みはじめ、三郎にもすすめた。姉は、三郎に飲んではいけないと目で知らせたが、三郎は平気で杯を受けた。
「姉さん、もう私は酒を飲んでもいいのだよ。家にお金も、たくさんたまつたし、私がゐなくなつても、もう姉さんたちは一生あそんで暮せるでせう。菊を作るのにも、厭きちやつた。」と妙な事を言つて、やたらに酒を飲むのである。やがて酔ひつぶれて、寝ころんだ。みるみる三郎のからだは溶けて、煙となり、あとには着物と草履だけが残つた。才之助は驚愕して、着物を抱き上げたら、その下の土に、水々しい菊の苗が一本生えてゐた。はじめて、陶本姉弟が、人間でない事を知つた。けれども、才之助は、いまでは全く姉弟の才能と愛情に敬服してゐたのだから、嫌厭の情は起らなかつた。哀しい菊の精の黄英を、いよいよ深く愛したのである。菊の苗は、わが庭に移し植ゑ、秋にいたつて花を開いたが、その花は薄紅色で幽かにぽつと上気して、嗅いでみると酒の匂ひがした。黄英のからだに就いては、「亦他異無し。」と原文に書かれてある。つまり、いつまでもふつうの女体のままであつたのである。
底本:「太宰治全集第四巻」筑摩書房
1989(平成元)年12月15日初版第1刷
入力:八巻美惠
1999年1月1日公開
2004年3月4日修正
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