な事は、なんでもない。」才之助は、すでに騎虎の勢ひである。「まづ私の家へいらして、ゆつくり休んで、それからお捜しになつたつておそくは無い。とにかく私の家の菊を、いちど御覧にならなくちやいけません。」
「これは、たいへんな事になりました。」少年は、もはや笑はず、まじめな顔をして考へ込んだ。しばらく黙つて歩いてから、ふつと顔を挙げ、「実は、私たち沼津の者で、私の名前は、陶本《たうもと》三郎と申しますが、早くから父母を失ひ、姉と二人きりで暮してゐました。このごろになつて急に姉が、沼津をいやがりまして、どうしても江戸へ出たいと言ひますので、私たちは身のまはりのものを一さい整理して、ただいま江戸へ上る途中なのです。江戸へ出たところで、何の目当もございませんし、思へば心細い旅なのです。のんきに菊の花など議論してみる場合ぢや無かつたのでした。私も菊の花は、いやでないものですから、つい、余計のおしやべりをしてしまひました。もう、よしませう。どうか、あなたも忘れて下さい。これで、おわかれ致します。考へてみると、いまの私たちは、菊の花どころでは無かつたのです。」と淋しさうな口調で言つて目礼し、傍の馬に乗らうとしたが、才之助は固く少年の袖をとらへて、
「待ち給へ。そんな事なら、なほさら私の家へ来てもらはなくちやいかん。くよくよし給ふな。私だつて、ひどく貧乏だが、君たちを世話する事ぐらゐは出来るつもりです。まあ、いいから私に任せて下さい。姉さんも一緒だとおつしやつたが、どこにゐるんです。」
見渡すと、先刻は気附かなかつたが、痩馬の蔭に、ちらと赤い旅装の娘のゐるのが、わかつた。才之助は、顔をあからめた。
才之助の熱心な申し入れを拒否しかねて、姉と弟は、たうとうかれの向島の陋屋に一まづ世話になる事になつた。来てみると、才之助の家は、かれの話以上に貧しく荒れはててゐるので、姉弟は、互ひに顔を見合せて溜息をついた。才之助は、一向平気で、旅装もほどかず何よりも先に、自分の菊畑に案内し、いろいろ自慢して、それから菊畑の中の納屋を姉弟たちの当分の住居として指定してやつたのである。かれの寝起きしてゐる母屋は汚くて、それこそ足の踏み場も無いほど頽廃してゐて、むしろ此の納屋のはうが、ずつと住みよいくらゐなのである。
「姉さん、これあいけない。とんだ人のところに世話になつちやつたね。」陶本の弟は、その納屋で旅装を解きながら、姉に小声で囁いた。
「ええ、」姉は微笑して、「でも、のんきでかへつていいわ。庭も広いやうだし、これからお前が、せいぜい佳い菊を植ゑてあげて、御恩報じをしたらいいのよ。」
「おやおや、姉さんは、こんなところに、ずつと永く居るつもりなのですか?」
「さうよ。私は、ここが気に入つたわ。」と言つて顔を赤くした。姉は、二十歳くらゐで、色が溶けるほど白く、姿もすらりとしてゐた。
その翌朝、才之助と陶本の弟とは、もう議論をはじめてゐた。姉弟たちが代る代る乗つて、ここまで連れて来たあの老いた痩馬がゐなくなつてゐるのである。ゆうべたしかに菊畑の隅に、つないで置いた筈なのに、けさ、才之助が起きて、まづ菊の様子を見に畑へ出たら、馬はゐない。しかも、畑を大いに走り廻つたらしく、菊は食ひ荒され、痛めつけられ、さんざんである。才之助は仰天して、納屋の戸を叩いた。弟が、すぐに出て来た。
「どうなさいました。何か御用ですか。」
「見て下さい。あなたたちの痩馬が、私の畑を滅茶滅茶にしてしまひました。私は、死にたいくらゐです。」
「なるほど。」少年は、落ちついてゐた。「それで? 馬は、どうしました。」
「馬なんか、どうだつていい。逃げちやつたんでせう。」
「それは、惜しい。」
「何を、おつしやる。あんな痩馬。」
「痩馬とは、ひどい。あれは、利巧な馬です。すぐ様さがしに行つて来ませう。こんな菊畑なんか、どうでもいい。」
「なんですつて?」才之助は、蒼くなつて叫んだ。「君は、私の菊畑を侮蔑するのですか?」
姉が、納屋から、幽かに笑ひながら出て来た。
「三郎や、あやまりなさい。あんな痩馬は、惜しくありません。私が、逃がしてやつたのです。それよりもこの荒された菊畑を、すぐに手入れしておあげなさいよ。御恩報じの、いい機会ぢやないの。」
「なあんだ。」三郎は、深い溜息をついて、小声で呟いた。「そんなつもりだつたのかい。」
弟は、渋々、菊畑の手入れに取りかかつた。見てゐると、葉を喰ひちぎられ、打ち倒され、もはや枯死しかけてゐる菊も、三郎の手に依つて植ゑ直されると、颯つと生気を恢復し、茎はたつぷりと水分を含み、花の蕾は重く柔かに、しをれた葉さへ徐々にその静脈に波打たせて伸腰する。才之助は、ひそかに舌を捲いた。けれども、かれとても菊作りの志士である。プライドがあるのだ。どてらの襟を掻き合せ、努め
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