しやらないで下さい。私は、あなたのやうな潔癖の精神は持つてゐませんので、御推察のとほり、菊を少しづつ売つて居ります。けれども、どうか軽蔑なさらないで下さい。姉も、いつもその事を気にかけて居ります。私たちだつて、精一ぱいなのです。私たちには、あなたのやうに、父祖の遺産といふものもございませんし、ほんたうに、菊でも売らなければ、のたれ死にするばかりなのです。どうか、お見逃し下さつて、これを機会に、またおつき合ひ願ひます。」と言つて、うなだれてゐる三郎の姿を見ると、才之助も哀れになつて来て、
「いや、いや、さう言はれると痛み入ります。私だつて、何も、君たち姉弟《きやうだい》を嫌つてゐるわけではないのです。殊に、これからは君を菊の先生として、いろいろ教へてもらはうと思つてゐるのですから、どうか、私こそ、よろしくお願ひ致します。」と神妙に言つて一礼した。
一たんは和解成つて、間の生垣も取り払はれ、両家の往来がはじまつたのであるが、どうも、時々は議論が起る。
「君の菊の花の作り方には、なんだか秘密があるやうだ。」
「そんな事は、ありません。私は、これまで全部あなたにお伝へした筈です。あとは、指先の神秘です。それは、私にとつても無意識なもので、なんと言つてお伝へしたらいいのか、私にもわかりません。つまり、才能といふものなのかも知れません。」
「それぢや、君は天才で、私は鈍才だといふわけだね。いくら教へても、だめだといふわけだね。」
「そんな事を、おつしやつては困ります。或いは、私の菊作りは、いのちがけで、之を美事に作つて売らなければ、ごはんをいただく事が出来ないのだといふ、そんなせつぱつまつた気持で作るから、花も大きくなるのではないかとも思はれます。あなたのやうに、趣味でお作りになる方は、やはり好奇心や、自負心の満足だけなのですから。」
「さうですか。私にも菊を売れと言ふのですね。君は、私にそんな卑しい事をすすめて、恥づかしくないかね。」
「いいえ、そんな事を言つてゐるのではありません。あなたは、どうして、さうなんでせう。」
どうも、しつくり行かなかつた。陶本の家は、いよいよ富んで行くばかりの様であつた。その翌る年の正月には、才之助に一言の相談もせず、大工を呼んでいきなり大邸宅の建築に取りかかつた。その邸宅の一端は、才之助の茅屋の一端に、ほとんど密着するくらゐであつた、才之助は、再び隣家と絶交しようと思ひはじめた。或る日、三郎が真面目な顔をしてやつて来て、
「姉さんと結婚して下さい。」と思ひつめたやうな口調で言つた。
才之助は、頬を赤らめた。はじめ、ちらと見た時から、あの柔かな清らかさを忘れかねてゐたのである。けれども、やはり男の意地で、へんな議論をはじめてしまつた。
「私には結納のお金も無いし、妻を迎へる資格がありません。君たちは、このごろ、お金持ちになつたやうだからねえ。」と、かへつて厭味《いやみ》を言つた。
「いいえ、みんな、あなたのものです。姉は、はじめから、そのつもりでゐたのです。結納なんてものも要りません。あなたが、このまま、私の家へおいで下されたら、それでいいのです。姉は、あなたを、お慕ひ申して居ります。」
才之助は、狼狽を押し隠して、
「いや、そんな事は、どうでもいい。私には私の家があります。入《い》り婿《むこ》は、まつぴらです。私も正直に言ひますが、君の姉さんを嫌ひではありません。はははは、」と豪傑らしく笑つて見せて、「けれども、入《い》り婿《むこ》は、男子として最も恥づべき事です。お断り致します。帰つて姉さんに、さう言ひなさい。清貧が、いやでなかつたら、いらつしやい、と。」
喧嘩わかれになつてしまつた。けれどもその夜、才之助の汚い寝所に、ひらりと風に乗つて白い柔い蝶が忍び入つた。
「清貧は、いやぢやないわ。」と言つて、くつくつ笑つた。娘の名は、黄英《きえ》といつた。
しばらくは二人で、茅屋に住んでゐたが、黄英は、やがてその茅屋の壁に穴をあけ、それに密着してゐる陶本の家の壁にも同様に穴を穿ち、自由に両家が交通できるやうにしてしまつた。さうして自分の家から、あれこれと必要な道具を、才之助の家に持ち運んで来るのである。才之助には、それが気になつてならなかつた。
「困るね。この火鉢だつて、この花瓶だつて、みんなお前の家のものぢやないか。女房の持ち物を、亭主が使ふのは、実に面目ない事なのだ。こんなものは、持つて来ないやうにしてくれ。」と言つて叱りつけても、黄英は笑つてゐるばかりで、やはり、ちよいちよい持ち運んで来る。清廉の士を以て任じてゐる才之助は、大きい帳面を作り、左の品々一時お預り申候と書いて、黄英の運んで来る道具をいちいち記入して置く事にした。けれども今は、身のまはりの物すべて、黄英の道具である。いちいち記入して
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