てゐないところを歩いてゐる。才之助の顔を見て、につと笑つたやうである。知らぬふりをしてゐるのも悪いと思つて、才之助も、ちよつと立ちどまつて笑ひ返した。少年は、近寄つて馬から下り、
「いいお天気ですね。」と言つた。
「いいお天気です。」才之助も賛成した。
 少年は馬をひいて、そろそろ歩き出した。才之助も、少年と肩をならべて歩いた。よく見ると少年は、武家の育ちでも無いやうであるが、それでも人品は、どこやら典雅で服装も小ざつぱりしてゐる。物腰が、鷹揚である。
「江戸へ、おいでになりますか。」と、ひどく馴れ馴れしい口調で問ひかけて来るので、才之助もそれにつられて気をゆるし、
「はい、江戸へ帰ります。」
「江戸のおかたですね。どちらからのお帰りですか。」旅の話は、きまつてゐる。それからそれと問ひ答へ、つひに才之助は、こんどの旅行の目的全部を語つて聞かせた。少年は急に目を輝かせて、
「さうですか。菊がお好きとは、たのもしい事です。菊に就いては、私にも、いささか心得があります。菊は苗の良し悪しよりも、手当の仕方ですよ。」と言つて、自分の栽培の仕方を少し語つた。菊気違ひの才之助は、たちまち熱中して、
「さうですかね。私は、やつぱり苗が良くなくちやいけないと思つてゐるんですが。たとへば、ですね、――」と、かねて抱懐してゐる該博なる菊の知識を披露しはじめた。少年は、あらはに反対はしなかつたが、でも、時々さしはさむ簡単な疑問の呟きの底には、並々ならぬ深い経験が感取せられるので、才之助は、躍起になつて言へば言ふほど、自信を失ひ、はては泣き声になり、
「もう、私は何も言ひません。理論なんて、ばからしいですよ。実際、私の作つた菊の花を、お見せするより他はありません。」
「それは、さうです。」少年は落ちついて首肯いた。才之助は、やり切れない思ひである。何とかして、この少年に、自分の庭の菊を見せてやつて、あつと言はせてやりたく、むずむず身悶えしてゐた。
「それぢや、どうです。」才之助は、もはや思慮分別を失つてゐた。「これから、まつすぐに、江戸の私の家まで一緒にいらして下さいませんか。ひとめでいいから、私の菊を見てもらひたいものです。ぜひ、さうしていただきたい。」
 少年は笑つて、
「私たちは、そんなのんきな身分ではありません。これから江戸へ出て、つとめ口《ぐち》を捜さなければいけません。」
「そん
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