になって、少しおさまった。けれども、雨戸をさかんに、ゆり動かしている。外は、とてもよい月夜なのに。風よ、どんなに荒く吹いてもいいけど、あの月と星とだけは、吹き流さないでおくれ。兄さんは、夜もずっと執筆を継続。僕は、「夜明け前」を寝床の中でまた少し読みつづける。
あすは、R大学の発表である。木島さんが電報で、結果を知らせてくれる筈《はず》である。ちょっと気になる。
四月六日。木曜日。
晴れたり曇ったり。朝、少し雨。海浜の雨は、サイレント映画だ。降っても、なんにも音がせず、しっとりと砂に吸い込まれて行く。風は、すっかりやんでいる。起きて、しばらく雨の庭を眺めて、それから、「ええ、寝ちまえ!」とひとりごとを言って、また蒲団の中に、もぐり込んでしまった。兄さんは、プウシキンのような顔をして、すやすや眠っている。兄さんは御自分の顔の黒いのを、時々|自嘲《じちょう》なさっているが、僕は、兄さんのように浅黒くて陰影の多い顔を好きだ。僕の顔は、ただのっぺりと白くて、それに頬《ほっ》ぺたが赤くて、少しも沈鬱《ちんうつ》なところがない。頬ぺたを蛭《ひる》に吸わせると、頬の赤みが取れるそうだが、気味が悪くて、決行する勇気は無い。鼻だって、兄さんのは骨ばって、そうして鼻梁《びりょう》にあざやかな段がついていて、オリジナリティがあるけれども、僕のは、ただ、こんもりと大きいだけだ。いつか僕が友人の容貌《ようぼう》の事などを調子づいて話していたら、兄さんが傍から、「お前は美男子だよ。」と突然言って、座を白けさせてしまった事があったけれど、あの時は、うらめしかった。何も僕は、自分だけが美男子で、他のひとは皆、醜男《ぶおとこ》だなんて思ってやしない。とんでもない事である。自分が絶世の美男子だったら、ひとの容貌なんかには、むしろ無関心なものだろうと思う。ひとの醜貌に対しても、頗《すこぶ》る寛大なものだろうと思う。ところが僕のように、自分の顔が甚《はなは》だ気にいらない者には、ひとの容貌まで気になって仕様がないのだ。さぞ憂鬱《ゆううつ》だろうな、と共感を覚えるのである。無関心では居られないのだ。僕の顔など、兄さんに較《くら》べて、百分の一も美しくない。僕の顔には、精神的なものが一つも無いのだ。トマトのようなものだ。兄さんは御自分では、色の黒いのを自嘲して居《お》られるが、いまに文筆で有名になったら、小説界随一の美男子だなんて人に言われて、その時は、まごついてしまうに違いない。ちょいとプウシキンに似ていますよ。僕の顔は、百人一首の絵札の中にあります。うつらうつら眠って、いろいろな夢を見た。なんでも上野駅あたりの構内らしかったが、僕は四方を汽車に取りかこまれながら、風呂桶《ふろおけ》のお湯にひたって、きょろきょろしていた。突然、頭上で、ベートーヴェンの第七が落雷の如《ごと》く響いた。あわてふためいて僕は立ち上り、裸のままで両手を挙げ、指揮をはじめた。或る時は激しく、或る時は悠然《ゆうぜん》と大きく、また或る時は全身を柔かに悶《もだ》えさせて指揮した。交響楽は、ふっと消えた。汽車の乗客たちは汽車の窓々から僕を冷静に見つめている。僕は恥ずかしくなった。全裸で、悶えの指揮の形のまま、僕は風呂桶の中に立っているのだ。なんとも言えない、恥ずかしい形であった。自分で噴き出して、眼が覚めた。短い夢だったが、でも、聞きたいと思っていたベートーヴェンの第七を久し振りで聞く事が出来て、ありがたかった。また、うつらうつら眠ったら、こんどは試験だ。正面に舞台があったりして、いやに立派な試験場だと思ったら、帝大の入学試験だという。けれども、試験官としてやって来たのは、たぬきだったので、いぶかしく思った。受験生も、みんな顔なじみの四年生だ。英語の試験だというのに、問題の紙には虎《とら》の絵がかかれてある。どうしても解けない。たぬきは傍に寄って来て、僕に教えてやろうかと言う。僕は、いやだ、あっちへ行け、と言う。いや教えてやる、と言って、たぬきは、クスクス笑うのである。いやでいやで、たまらなかった。悲劇を書けばいいんだろう、と僕が言ってやったら、たぬきは、いや羽衣《はごろも》だよ、と言う。へんな事を言うなあと思ったら、ベルが鳴った。僕は、白紙を、たぬきに手渡して廊下に出た。廊下では、みんながやがや騒いでいる。
「明日の試験は何だい?」
「遠足の試験だい。骨が折れるぜ。」
「お菓子に気をつけろってんだ。」
「おれぁ、相撲部じゃねえよ。」これは、木村らしい。
「二十五円の靴だってさ。」
「お酒飲んで、それから紅葉を見に行こうよ。」これも、木村らしかった。
「お酒でたくさんだい。」
「進、パスしたぜ。」これは、お兄さんの現実の声であった。枕《まくら》もとに立って、笑っている。「見事合格って、木島
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