た。女史はからだを、くねくねさせて、
「あの、いただけないんざますのよ。」
「でも、まあ、一ぱい。」
「オホホホホ。ではまあ、ほんのチョッピリ!」
いやらしい! 兄さんは、あまりの恥ずかしさに席を蹴《け》って帰りたかったそうだ。一事は万事である。どうも、気障《きざ》ったらしくてかなわない。今夜も僕の顔を見て、
「あらまあ! 進ちゃん、鼻の下に黒い毛が生えて来たじゃないの! しっかりなさいよ。」と言った。愚劣だ。実に不潔だ。乱暴だ。無態だ。まさしく一家の恥である。同席は、ごめんである。こっそり兄さんと、うなずき合って、一緒に外出した。銀座は、ひどい人出《ひとで》である。みんな僕たちみたいに家が憂鬱《ゆううつ》だから、こうして銀座へ出て来ているのであろうか、と思ったら、おそろしい気がした。資生堂でコーヒーを飲みながら兄さんは、「芹川の家には、淫蕩《いんとう》の血が流れているらしい。」と呟《つぶや》いたので、ぎょっとした。帰りのバスの中では、「誠実」という事に就いて話し合った。兄さんも、このごろは、くさっているらしい。姉さんがいなくなったので、家の仕事も見なければならず、小説も思うようにすすまないようだ。
帰ったら十一時。チョッピリ女史は、すでに退散。
さて、明日からは高邁《こうまい》な精神と新鮮な希望を持って前進だ。十七歳になったのだ。僕は神さまに誓います。明日は、六時に起きて、きっと勉強いたします。
一月五日。木曜日。
曇天。風強し。きょうは、何もしなかった。風の強い日は、どうもいけない。御起床が、すでに午後一時であった。去年よりも、さらにだらしが無くなったような気がする。起きてまごまごしていたら、いまは下谷《したや》に家を持っている姉さんから僕に電話だ。「あそびにいらっしゃい。」というのだが、僕は困惑した。例の優柔不断の気持から、「うん」と答えてしまった。僕は、本当は、鈴岡さんの家がきらいなのだ。どうも俗だ。姉さんも、変ってしまった。結婚して、ほどなく家へ遊びにやって来たが、もう変っていた。カサカサに乾いていた。ただの主婦《おかみ》さんだ。ふくよかなものが何も無くなっていた。おどろいた。あれはお嫁に行ってから十日と経《た》たない頃《ころ》の事であったが、手の甲がひどく汚くなっていた。それから、いやに抜け目がなく、利己的にさえなっていた。姉さんは隠そうと努めていたが、僕には、ちゃんとわかったのだ。いまではもう全く、鈴岡の人だ。顔まで鈴岡さんに似て来たようだ。顔といえば、僕は俊雄《としお》君の顔を考えるたびに、しどろもどろになるのである。俊雄君は、鈴岡さんの実弟だ。去年、田舎の中学を出て、いまは姉さんたちと同居して慶応の文科にかよっているのだ。こんな事を言っちゃ悪いけれど、この俊雄君は、僕が今までに見た事もない醜男《ぶおとこ》なのだ。実に、ひどいんだ。僕だって、ちっとも美しくないし、また、ひとの顔の事は本当に言いたくないのだが、俊雄君の顔は、あまりにもひどいので、僕は、しどろもどろになってしまうのだ。鼻がどうの、口がどうのというのではないのだ。全体が、どうも、ばらばらなのだ。ユウモラスなところも無い。僕はあの人と顔を合せると、いつでも奇妙に考え込んでしまう。一万人に一人というところなのだ。こんな言いかたは、僕自身も不愉快だし、言ってはいけない事なんだが、どうも事実だから致しかたが無い。あんな顔は、僕は生れてはじめて見た。男は顔なんて問題じゃない、精神さえきよらかなら大丈夫、立派に社会生活ができるという事は、僕も堅く信じているが、俊雄君のように若くて、そうして慶応の文科のような華やかなところで勉強している身が、あんな顔では、ずいぶん苦しい事だってあるだろうと思う。実際、顔を合せると、こちらまで人生がいやになるくらいなのだ。本当に、ひどいのだ。あの人は、これからの永い人生に於《おい》ても、その先天的なもののために、幾度か人に指さされ、かげ口を言われ、敬遠せられる事だろう。僕はそれを考えると、現代の社会機構に対して懐疑的になり、この世が恨めしくなって来るのだ。世の中の人々の冷酷な気持が、いやになる。おのずから義憤も感ずる。俊雄君が、将来それ相当の職業について、食うに困らぬくらいの生活が出来たら、それは実に好もしく祝福すべき事だ。けれども結婚の場合は、どうだろう。これはと思う婦人があっても、自分の醜い顔のために結婚できなかった時には、どんなに悲惨な思いをするだろう。大声で、うめくだろう。ああ、俊雄君の事を考えると憂鬱だ。心の底から同情はしているけれど、どうも、いやだ。ひどいんだ。何も形容が出来ないのである。なるべく見たくないのだ。僕にもやっぱり、世の中の人と同じ様な、冷酷で、いい気なものがあるのかも知れない。考えれば考えるほ
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