」壁に張ろうとしています。僕は、ひどい偽善者なのかも知れん。よくよく気をつけなければならぬ。十六から二十までの間に人格が決定されるという説もある事だ。本当に、いまは大事な時なのである。
一つには、わが混沌《こんとん》の思想統一の手助けになるように、また一つには、わが日常生活の反省の資料にもなるように、また一つには、わが青春のなつかしい記録として、十年後、二十年後、僕が立派な口鬚《くちひげ》でもひねりながら、こっそり読んでほくそ笑むの図などをあてにしながら、きょうから日記をつけましょう。
けれども、あまり固くなって、「重厚」になりすぎてもいけない。
微笑もて正義を為せ! 爽快《そうかい》な言葉だ。
以上が僕の日記の開巻第一ペエジ。
それからきょうの学校の出来事などを、少し書こうと思っていたのだが、ああもう、これはひどい埃です。口の中まで、ざらざらして来た。とても、たまらぬ。風呂へはいろう。いずれまた、ゆっくり、などと書いて、ふと、なあんだ誰もお前を相手にしちゃいないんだ、と思って、がっかりした。誰も読んでくれない日記なんだもの、気取って書いてみたって、淋しさが残るばかりだ。智慧の実は、怒りと、それから、孤独を教える。
きょう学校の帰り、木村と一緒にアズキを食いに行って、いや、これは、あす書こう。木村も孤独な男だ。
四月十七日。土曜日。
風はおさまったけれど、朝はどんより曇って昼頃《ひるごろ》ちょっと雨が降り、それから、少しずつ晴れて来て、夜は月が出た。今夜は、まず、きのうの日記を読みかえしてみて、そうして恥ずかしく思った。実に下手だ。顔が赤くなってしまった。十六歳の苦悩が、少しも書きあらわされていない。文章が、たどたどしいばかりでなく、御本人の思想が幼稚なのだ。どうも、仕方がない。いま、ふと考えた事だが、なぜ僕は、四月の十六日なぞという、はんぱな日から日記を書きはじめたのだろう。自分でも、わからない。不思議である。前から日記をつけたいと思っていたのだが、おととい兄さんから、いい言葉を教えられ、それで興奮して、よし、あしたからと覚悟したのかも知れない。十六歳の十六日、マタイ六章の十六節。けれども、それは皆、偶然の暗合に過ぎない。つまらぬ暗号を喜ぶのは、みっともない。さらに深く考えてみよう。そうだ! 少しわかったところもある。その秘密は、十六日という日数《ひかず》にあるのでは無くて、金曜日というところにあるのではないかしら。僕は、金曜日という日には、奇妙に思案深くなる男だったのだ。前から、そんな癖があったのである。変にくすぐったい日であった。この日は、キリストにとっても不幸な日であった。それ故《ゆえ》、外国でも、不吉な日として、いやがられているようだ。僕は、別に、外国人の真似《まね》をして迷信を抱いているわけでもないが、どうも、この日を平気で過すわけには行かなかった。そうだ、僕は、此《こ》の日を好きなのだ。僕には、たぶんに、不幸を愛する傾向があるのだ。きっと、そうだ。なんでもない事のようだけれど、これは重大な発見である。この不幸にあこがれるという性癖は、将来、僕の人格の主要な一部分を形成するようになるのかも知れぬ。そう思うと、なんだか不安な気もする。ろくでもない事が起りそうな気がする。つまらん事を考え出したものだ。でも、これは事実だから仕方がない。真理の発見は必ずしも人に快楽を与えない。智慧の実は、にがいものだ。
さて、きょうは木村の事を書かなければならぬのだが、もう、いやになった。簡単に言えば、僕はきのう木村に全く敬服したのである。木村は学校でも有名な不良である。何度も落第して、もう十九歳になっている筈《はず》だ。僕は、いままで木村とゆっくり話合ってみた事はなかったが、きのう学校の帰りに、木村にひっぱられて、おしるこやに行って、アズキを食べながら、はじめて人生論を交換してみた。
木村は意外にも非常な勉強家であった。ニイチェをやっているのだ。僕は、ニイチェの事は、まだ兄さんから教わっていないので、なんにもわからず、ただ赤面した。僕は、聖書の事と、それから、蘆花《ろか》のことを言ったけれども、かなわなかった。木村の思想は、ちゃんと生活に於《おい》ても実行せられているのだから凄《すご》いのだ。木村の説に依《よ》れば、ニイチェの思想はヒットラアにつながっているのだそうだ。どうしてつながっているか、木村がいろいろ哲学上の説明をしてくれたが、僕には一つもわからなかった。木村は実に勉強している。僕は、この友を偉いと思った。もっと深くつき合ってみたいと思った。彼は、来年は陸軍士官学校を受験するそうだ。やはり、ニイチェ主義とも関係があるらしい。でも、陸軍士官学校は、とてもむずかしいそうだから、だめかも知れない。
「よしたほう
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