てから、家へ帰った。
四月二十七日。火曜日。
雨。いらいらする。眠れない。深夜一時、かすかに工夫《こうふ》の夜業の音が聞える。雨中、無言の労働である。シャベルと砂利の音だけが、規則正しく聞えて来るのだ。かけ声ひとつ聞えない。あすは、姉さんの結婚式だ。姉さんが、この家に寝るのも、今夜が最後である。どんな気持だろう。ひとの事なんか、どうだっていい。終り。
四月二十八日。水曜日。
快晴。朝、姉さんに、坐《すわ》ってちゃんとお辞儀をして、さっさと登校。お辞儀をしたら姉さんは、進ちゃん! と言って、泣き出した。すすむ、すすむ、とお母さんが奥で呼んでいたようだったが、僕は、靴の紐《ひも》も結ばずに玄関から飛び出した。
五月一日。土曜日。
だいたい晴れ。日記がおろそかになってしまった。なんの理由もない。ただ、書きたくなかったからである。いま突然、書いてみようと思い立ったから、書く。きょうは、兄さんに、ギタを買ってもらった。晩ごはんがすんでから、兄さんと銀座へ散歩に出て、その途中で僕が楽器屋の飾窓をちょっとのぞき込んで、
「木村も、あれと同じのを持ってるよ。」と何気なく言ったら、兄さんは、
「ほしいか?」と言った。
「ほんと?」と僕が、こわいような気がして、兄さんの顔色をうかがったら、兄さんは黙って店へはいって行って買ってくれた。
兄さんは、僕の十倍も淋《さび》しいのだ。
五月二日。日曜日。
雨のち晴れ。日曜だというのに、めずらしく八時に起きた。起きてすぐ、ギタを、布《きれ》で磨《みが》いた。いとこの慶ちゃんが遊びに来た。商大生になってから、はじめての御入来である。新調の洋服が、まぶしいくらいだ。
「人種が、ちがったね。」とお世辞を言ってやったら、えへへ、と笑った。だらしのねえ奴だ。商大へはいったからって、人種がちがってたまるものか。赤縞《あかじま》のワイシャツなどを着て、妙に気取っている。「体《からだ》は衣《ころも》に勝《まさ》るならずや」とあるを未だ読まぬか。
「ドイツ語がむずかしくってねえ。」などとおっしゃる。へえへえ、さようでござんすか。大学生ともなれば、やっぱり、ちがったもんですねえ。むしゃくしゃして来て、僕は、ギタをひいてばかりいた。銀座へ、さそわれたけれど、断る。
僕は、いま、少しも勉強していない。何もしていない。Doing nothing is doing ill. 何事をも為《な》さざるは罪をなしつつあるなり。僕は慶ちゃんに嫉妬《しっと》していたのかも知れぬ。下品な事だ。よく考えよう。
五月四日。火曜日。
晴れ。きょう蹴球部《しゅうきゅうぶ》の新入部員歓迎会が学校のホールで催された。ちょっと覗《のぞ》いてみて、すぐ帰った。ちかごろの僕の生活には、悲劇さえ無い。
五月七日。金曜日。
曇。夜は雨。あたたかい雨である。深夜、傘《かさ》をさして、こっそり寿司《すし》を食いに出る。ひどく酔っぱらった女給と、酔ってない女給と二人、寿司をもぐもぐ食っていた。酔っぱらった女給は、僕に対して失敬な事を言った。僕は、腹も立たなかった。苦笑しただけだ。
五月十二日。水曜日。
晴れ。きょう数学の時間に、たぬきが応用問題を一つ出した。時間は二十分。
「出来た人は?」
誰も手を挙げない。僕は、出来たような気がしていたのだが、三週間まえの水曜日みたいな赤恥をかくのは厭《いや》だから、知らん振りをしていた。
「なんだ、誰も出来んのか。」たぬきは嘲笑《ちょうしょう》した。「芹川、やってごらん。」
どうして僕に指名したりなどしたのだろう。ぎょっとした。立って行って、黒板に書いた。両辺を二乗すれば、わけがないのだ。答は0《ゼロ》だ。答、0、と書いたが、若《も》し間違っていたら、またこないだみたいに侮辱されると思ったから、答、0デショウ、と書いた。すると、たぬきは、わははと笑った。
「芹川には、実際かなわんなあ。」と首を振り振り言って、僕が自席にかえってからも、僕の顔を、しげしげ眺《なが》めて、「教員室でも、みんなお前を可愛《かわい》いと言ってるぜ。」と無遠慮な事を言った。クラス全体が、どっと笑った。
実に、いやな気がした。こないだの水曜日以上に不愉快だった。クラスの者に恥ずかしくて顔を合せられないような気がした。たぬきの神経も、また教員室の雰囲気《ふんいき》も、もうとても我慢の出来ぬほど失敬な、俗悪きわまるものだと思った。僕は、学校からの帰途、あっさり退学を決意した。家を飛び出して、映画俳優になって自活しようと思った。兄さんはいつか、進には俳優の天分があるようだね、と言った事がある。それをハッキリ思い出したのである。
けれども、晩ごはんの時、つぎのような有様で、なんという事もなかった。
「学校が
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