んなどと冗談を言って出発したのだが、なんという事もなかったようだ。どうも、兄さんは甘い。
 夜、木島さんとおシュン婆さんと僕と三人がかりで、変なアイスクリイムを作って食べていたら、ベルが鳴って、出てみると、木村のお父さんが、のっそり玄関先に立っていた。
「うちの馬鹿《ばか》が来ていませんか。」と意気込んで言う。
 一昨夜、ギタをかかえて出かけて、それっきり家へ帰らないのだそうだ。
「このごろ、さっぱり逢《あ》いませんが。」と言ったら、首をかしげて、
「ギタを持って出たから、きっとあなたの所だとばかり思って、ちょっとお寄りしてみたのですが。」と疑うような、いやな眼で僕を見つめる。ばかにしてやがる。
「僕は、もうギタは、やめました。」と言ってやったら、
「そうでしょう。いいとしをして、いつまでもあんな楽器をいじくりまわしているのは感心出来ません。いや、お邪魔しました。もし、あのばかが来ましたならば。あなたからも、説教してやって下さい。」と言い残して帰って行った。
 不良の木村には、お母さんが無いのだ。よその家庭のスキャンダルは言いたくないが、なんだか、ごたごたしているらしい。木村に説教するよりは、むしろ、木村の家の人たちに説教してやりたいものだと思った。木村のお父さんは所謂《いわゆる》、高位高官の人であるが、どうも品《ひん》がない。眼つきが、いやらしい。自分の子供だからといって、よそへ行ってまで、うちのばか、うちのばか、と言うのは、よくない事だと思った。実に聞きぐるしい。木村も木村だが、お父さんもお父さんだと思った。要するに、僕には、あまり興味が無い。ダンテは、地獄の罪人たちの苦しみを、ただ、見て[#「見て」に傍点]、とおったそうだ。一本の縄《なわ》も、投げてやらなかったそうだ。それでいいのだ、とこのごろ思うようになった。


 七月五日。水曜日。
 晴れ。夕、小雨。きょう一日の事を、ていねいに書いて見よう。僕はいま、とても落ちついている。すがすがしいくらいだ。心に、なんの不安も無い。全力をつくしたのだ。あとは、天の父におまかせをする。爽《さわ》やかな微笑が湧《わ》く。本当に、きょうは、素直に力を出し切る事が出来た。幸福とは、こんな思いを言うのかも知れない。及第落第は、少しも気にならない。
 きょうは春秋座の演技道場で、第一次の考査を受けたのである。けさは、七時半に起きた。六時|頃《ごろ》から目が覚めていたのだが、何か心の準備に於て手落ちが無いか、寝床の中で深く静かに考えていた。手落ちといえば全部、手落ちだらけであったが、それだからとて狼狽《ろうばい》することもなかった。とにかく、ごまかさなければいいのだ。正直に進んだら、何事もすべて単純に解決して、どこにも困難がない筈だ。ごまかそうとするから、いろいろと、むずかしくなって来るのだ。ごまかさない事。あとは、おまかせするのだ。心にそれ一つの準備さえ出来ていたら、他《ほか》には何も要らないのだと思った。詩を一つ作ろうと思ったが、うまく行かなかった。起きて、顔を洗い、鏡を見た。平然たる顔である。ゆうべ、ぐっすり眠ったせいか、眼が綺麗にすんでいる。笑って鏡に一礼した。それから、ごはんを、うんとたくさん食べた。おシュン婆さんも、おどろいていた。いつもは朝寝坊でも、試験だとなると、ちゃんと早起をして御飯も、たくさん食べる。男の子は、こうでなくちゃいけない、と変なほめかたをした。おシュン婆さんは、きょうは学校の試験があるのだと、ひとり合点しているらしい。役者の試験を受けに行くのだと知ったら、腰を抜かすかもしれない。
 身支度をして、それから仏壇のお父さんの写真に一礼して、最後に兄さんの部屋へ行き、
「行ってまいります。」と大声で言った。兄さんは、まだ寝ているのだ。むっくり上半身を起して、
「なんだ、もう行くのか。神の国は何に似たるか。」と言って、笑った。
「一粒《ひとつぶ》の芥種《からしだね》のごとし。」と答えたら、
「育ちて樹《き》となれ。」と愛情のこもった口調で言った。
 前途の祝福として、もったいないくらい、いい言葉だ。兄さんは、やはり僕より百倍もすぐれた詩人だ。とっさのうちに、ぴたりと適切な言葉を選ぶ。
 外は暑かった。神楽坂をてくてく歩いて、春秋座の演技道場へ着いたのは九時すこし過ぎだった。ちょっと早過ぎた。紅屋へ行ってソーダ水を飲んで汗を拭《ふ》き、それからまたゆっくり出直したら、こんどはちょうどよかった。古い大きいお屋敷である。玄関で靴《くつ》を脱いでいたら、角帯をきちんとしめた番頭さんのような若い人が出て来て、どうぞと小声で言ってスリッパを直してくれた。おだやかな感じである。まるで、お客様あつかいである。控室は二十畳敷くらいの広い明るい日本間で、もう七、八人、受験生が来ていた。み
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