達が悪いんじゃない、教師が悪いんだ。じっせえ、教師なんて馬鹿野郎ばっかりさ。男だか女だか、わからねえ野郎ばっかりだ。こんな事を君たちに向って言っちゃ悪いけど、俺《おれ》はもう、我慢が出来なくなったんだ。教員室の空気が、さ。無学だ! エゴだ。生徒を愛していないんだ。俺は、もう、二年間も教員室で頑張《がんば》って来たんだ。もういけねえ。クビになる前に、俺のほうから、よした。きょう、この時間だけで、おしまいなんだ。もう君たちとは逢《あ》えねえかも知れないけど、お互いに、これから、うんと勉強しよう。勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記《あんき》している事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ! これだけだ、俺の言いたいのは。君たちとは、もうこの教室で一緒に勉強は出来ないね。けれども、君たちの名前は一生わすれないで覚えているぞ。君たちも、たまには俺の事を思い出してくれよ。あっけないお別れだけど、男と男だ。あっさり行こう。最後に、君たちの御健康を祈ります。」すこし青い顔をして、ちっとも笑わず、先生のほうから僕たちにお辞儀をした。
 僕は先生に飛びついて泣きたかった。
「礼!」級長の矢村が、半分泣き声で号令をかけた。六十人、静粛に起立して心からの礼をした。
「今度の試験のことは心配しないで。」と言って先生は、はじめてにっこり笑った。
「先生、さよなら!」と落第生の志田が小さい声で言ったら、それに続いて六十人の生徒が声をそろえて、
「先生、さよなら!」と一斉《いっせい》に叫んだ。
 僕は声をあげて泣きたかった。
 黒田先生は、いまどうしているだろう。ひょっとしたら出征したかも知れない。まだ三十歳くらいの筈だから。
 こうして黒田先生の事を書いていると、本当に、時の経《た》つのを忘れる。もう深夜、十二時ちかい。兄さんは、隣室で、ひっそり小説を書いている。長篇《ちょうへん》小説らしい。もう二百枚以上になったそうだ。兄さんは、昼と夜とが逆なのだ。毎日、午後の四時頃に起きる。そうして必ず徹夜だ。からだに悪いんじゃないかしら。僕は、もう眠くてかなわぬ。これから、蘆花の思い出の記を少し読んで、眠るつもりだ。あすは日曜だから、ゆっくり朝寝が出来る。日曜のたのしみは、そればかりだ。


 四月十八日。日曜日。
 晴れたり、曇ったり。きょうは、午前十一時に起床した。別に変った事も無い。それは、当り前の話だ。日曜だからって、何かいい事があるかと思うのは間違いだ。人生は、平凡なものなんだ。あすは又、月曜日だ。あすから又、一週間、学校へ行くんだ。僕は、かなり損な性分らしい。現在のこの日曜を、日曜として楽しむ事が出来ない。日曜の蔭《かげ》にかくれている月曜の、意地わるい表情におびえるのだ。月曜は黒、火曜は血、水曜は白、木曜は茶、金曜は光、土曜は鼠《ねずみ》、そうして、日曜は赤の危険信号だ。淋しい筈だ。
 きょうは昼から、英語の単語と代数を、がむしゃらにやった。いやに、むし暑い日だった。タオルの寝巻一枚で、なりも振りもかまわず勉強した。晩ごはんの後のお茶が、おいしかった。兄さんも、おいしいと言っていた。お酒の味って、こんなものじゃないかしらと思った。
 さて、今夜は、何を書こうかな。何も書く事が無いから、一つ僕の家族の事でも書いてみましょう。僕の家族は、現在、七人だ。お母さんと、姉さんと、兄さんと、僕と、書生の木島さんと、女中の梅やと、それから先月から家に来ている看護婦の杉野《すぎの》さんと、七人である。お父さんは、僕が八つの時に死んだ。生前は、すこし有名な人だったらしい。アメリカの大学を出て、クリスチャンで、当時の新知識人だったらしい。政治家というよりは、実業家と言ったほうがいいだろう。晩年に
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