ているんでしょう? 俊雄さんの事なんか、お前たちは、もう、てんで馬鹿にして、――」
「そんな事はない。」僕は狼狽《ろうばい》した。
「だって、ことしのお正月にも、来てくれなかったし、お前たちばかりでなく、親戚《しんせき》の人も誰ひとり下谷へは立ち寄ってくれないんだもの。あたしも、考えたの。」
なるほど、そんな事もあるのか、と僕は思わず長大息を発した。
「ことしのお正月なんか、進ちゃんの来るのを、とっても楽しみにして待っていたのよ。鈴岡も、進ちゃんを、しんから可愛《かわい》がって、坊や、坊やって言って、いつも噂をしているのに。」
「腹が痛かったんだ、腹が。」しどろもどろになった。あんな事でも、姉さんの身にとっては、ずいぶん手痛い打撃なんだろうな、とはじめて気附《きづ》いた。
「それぁ、行かないのが当り前さ。」叔母さんは、こんどは僕の味方をした。滅茶滅茶《めちゃめちゃ》だ。「どだい、向うから来やしないんだものね。麹町にも、とんとごぶさただそうだし、私のところへなんか、年始状だって寄こしゃしない。それぁもう、私なんかは、――」また始めたい様子である。
「いけませんでした。」姉さんは、落ちついて言った。「鈴岡も、書生流というのか、なんというのか、麹町や目黒にだけでなく、ご自分の親戚のおかた達にも、まるでもう、ごぶさただらけなんです。私が何か言うと、親戚は後廻《あとまわ》しだ、と言って、それっきりなんですもの。」
「それでいいじゃないか。」僕は、鈴岡さんをちょっと好きになった。「まったく、肉親の者にまで、他人行儀のめんどうくさい挨拶《あいさつ》をしなければならんとなると、男は仕事も何も出来やしない。」
「そう思う?」姉さんは、うれしそうな顔をした。
「そうさ。心配しなくていいぜ。このごろ兄さんと毎晩おそくまでお酒を飲み歩いている相手は誰だか知ってるかい? 鈴岡さんだよ。大いに共鳴しているらしい。しょっちゅう、鈴岡さんから電話が来るんだ。」
「ほんとう?」姉さんは眼を大きくして僕を見つめた。その眼は歓喜に輝いていた。
「当り前じゃないか。」僕は図に乗って言った。「鈴岡さんはね、毎朝、尻端折《しりはしょり》して、自分で部屋のお掃除をしているそうだ。そうしてね、俊雄君が、赤いたすきを掛けてご飯の支度さ。僕は、その話を兄さんから聞いて、下谷の家をがぜん好きになっちゃった。でも、坊やだけは、よしてくれねえかな。」
「あらためます。」姉さんは浮き浮きしている。「だって鈴岡がそう言うもんだから、私までつい口癖になって。」僕には、おのろけのように聞えた。けれども、それをひやかすのは下品な事だ。
「僕も悪かったし、兄さんだって、うっかりしてたところがあったんだ。叔母さん、ごめんね。さっきはあんな乱暴な事ばかり言って。」と叔母さんの御機嫌もとって置いた。
「それぁ私だって、まるくおさまったら、これに越した事は、ないと思っていたさ。」叔母さんも、さすがに機を見るに敏《びん》である。くるりと態度をかえていた。「だけど、進ちゃんも、利巧になったねえ。舌を巻いたよ。でもね、あの、チョッピリだの何だのと言って、年寄りをひやかすのだけは、やめておくれ。」
「あらためます。」
僕は、いい気持だった。叔母さんのところで夕ごはんをごちそうになって、家へ帰った。
その夜ほど、兄さんの帰宅を待ちこがれた事が無い。お母さんは、僕が目黒の家で晩ごはんをたべて来たという事を聞いて、やたらに姉さんの様子を知りたがり、何かとうるさく問い掛けるのであるが、僕は、教えるのが、なんだか惜しくて、要領を得ないような事ばかり言って、あとで兄さんからお聞きなさいよ、僕には、よくわからないんだもの、とごまかして、お母さんの部屋から逃げ出してしまった。
十一時ごろ、兄さんは、ひどく酔っぱらって帰って来た。僕は、兄さんの部屋へついて行って、
「兄さん、お水を持って来てあげようか。」
「要らねえよ。」
「兄さん、ネクタイをほどいてあげようか。」
「要らねえよ。」
「兄さん、ズボンを寝押《ねおし》してあげようか。」
「うるせえな。早く寝ろ。風邪は、もういいのか。」
「風邪なんて、忘れちゃったよ。僕は、きょう目黒へ行って来たんだよ。」
「学校を、さぼったな。」
「学校の帰りに寄って来たんだよ。姉さんがね、兄さんによろしくって言ってたぜ。」
「聞く耳は持たん、と言ってやれ。進も、いい加減に、あの姉さんをあきらめたほうがいいぜ。よその人だ。」
「姉さんは、僕たちの事を、とっても思っているんだねえ。ほろりとしちゃった。」
「何を言ってやがる。早く寝ろ。そんなつまらぬ事に関心を持っているようでは、とても日本一の俳優にはなれやしない。このごろ、さっぱり勉強もしていないようじゃないか。兄さんには、なんでもよくわかっ
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